黒鐡…05
その瞬間、強い立ち眩みでグラリと視界が揺れる。
拙い、と思った。
こんな所で、倒れる訳には行かないのだ。
地面に倒れたりなんかしたら制服が汚れて、母に叱られてしまう。
一瞬そう考えるけれど、僕は次の瞬間、伸びて来た腕にしっかりと身体を支えられていた。
その行動が助ける、と云うのかは分からないけれど、僕は誰かに、こんな風に助けられた事は無い。
驚きで暫くの間何も考えられずに居ると、頭上で男は低い笑い声を立てた。
「…細い身体だな、」
まるで小馬鹿にするような呟きに、感情が冷えるように頭の中が冷静になってゆく。
さっきは驚きがあまりにも強かった所為で、何とも思わなかったけれど……僕は他人に、抱き支えられているのだ。
人がこんなにも近くに、しかも身体に触れられているんだと考えると、途端に嫌悪感が込み上げて来て―――
僕は軽い恐慌状態に陥り、礼を云う事すら忘れて、男の腕の中でもがくように身体を動かした。
「い、嫌だ…離せ…っ」
搾り出すように言葉を掛けると、男は可笑しそうに低い笑い声を立てた。
何が可笑しいのか疑問に思ったが、問い掛ける気にはならない。
「…先に云う言葉は普通、礼の言葉だろう?」
叱ったり不機嫌になる、と云った様子は無く、男はただ可笑しそうにそう云って来た。
その言葉に少し冷静さを取り戻し掛けたけれど、男の次の行動に、頭の中は一気に真っ白になる。
相手は更に強く、僕を抱き締めて来たのだ。
それは本当に、抱き締めるとしか云い様の無い行動で、僕は小さな悲鳴を漏らす。
男の胸元に顔を押し付けさせられて息が詰まり、身体が一瞬強張って徐々に震え始めた。
「どうした…、」
震えている僕に気付いたのか、男はようやく身体を離してくれた。
逃げるように、少しよろけながら後退りして、僕は壁に背を付けて凭れ掛かる。
俯いて呼吸を整え、思い出したように軽く頭を下げた。
「あ、有り難うございました。本当に、すみません。もう、大丈夫です」
「無理はするな、…顔色も悪い」
「いいえ…もう本当に、大丈夫ですから。すみま、せ…、」
最後までちゃんと言いたかったのに、僕は咄嗟に口を抑えて咳込んでしまう。
しまった、と遅れて考えたけれど、相手は「ほら見ろ」と、意外な言葉を発した。
そんな言葉を、目の前で聞いた事は無い。
何だか呆れたような口調だったけれど、何処と無く優しい感じに思えたのは、僕の気の所為だろうか。
常に感じるあの黒々しい雰囲気ですら、今は薄れているように思える。
何時もは身体が震えるぐらいに恐ろしくて、息が詰まって、呼吸すら上手く出来ないほど張り詰めた雰囲気なのに。
あの責めるような双眸は、今はどうなっているのか何故か無性に気になって、僕は顔を上げようとした。
その瞬間冷たい感触が額に触れ、咄嗟に首を竦めると、男は愉しそうに笑い声を立てた。
自分の額に触れている冷たいものが男の手だと云う事に気付いて、身体は一瞬だけ強張った。
でも、何故かさっきのような嫌悪感が湧かない。
………気持ちがいいのだ。
男の手があまりにも冷たすぎて、気持ちがいい。
「熱が高いな…少し休んだ方が良い」
笑っていたのとは打って変わって、男の口調はとても真面目なものだった。
けれど僕は掛けられた言葉が上手く呑み込めず、ただぼんやりと相手を見上げる事しか出来無い。
余計な事など何一つ考えず、この冷たい感触に浸っていたいとすら思った。
けれどその手は、あっさりと離れてゆく。
離れてゆく手をまるで惜しむように眼で追って、直ぐに僕ははっとした。
相手の手を眼で追ってしまった事が、無性に浅ましい事のように思えた。
「…す、すみません、休まなくても大丈夫です。それに、もう帰りますから…気に掛けて下さって、有り難うございます」
慌てたように頭を下げて礼を口にするけれど、自分の行動を恥じて頭を上げられない。
相手が去るまで、頭を下げたままで居たいとすら思ったのに、急に伸びて来た手に顎を掴まれ、顔を無理矢理上げさせられた。
「真っ青な顔して云う科白じゃねぇな、」
男の強引さに驚く僕には構わず、相手は苛付いたように小さく舌打ちを零した。
そして本当に唐突に、僕の身体に手を回して軽々と抱き上げ、肩に担いだのだ。
息が止まる程驚いたけれど、男は僕を担いだまま飛び石を伝って庭を進み出した。
「は、離して…下ろしてくださいっ、」
一体この男は何を考えているんだと、不可解な行動に頭を抱えたくなる。
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