黒鐡…06
両足を暴れさせて何とか下ろして貰おうと試みた途端、さっきまで薄れていた、
息も詰まる程の黒々しい雰囲気が強まった。
「部屋に着いたら下ろしてやる。…あんまり暴れると、庭池に放り込むぞ」
刺すような鋭い声と男の雰囲気が恐ろしくて、息が詰まる。
他人に触られている事に対しての嫌悪感はどうしてかあまり湧かなかったけれど……見っとも無い程、身体は震えていた。
そんな僕を気にした様子も無く、男は縁側の硝子戸を開けて家の中に入り、更に進んで廊下を通ってゆく。
けれど急に男の足が止まって、此処で下ろしてくれるのかと考えた矢先、女性の声が耳に入った。
「御島さん、どうなさったんですか、」
「…美咲さんのお子さんが、少々ご気分を悪くされたようでしてね。」
御島とはこの男の事だろうかと訝る僕の耳に、信じられない程、慇懃な返答が聞こえた。
さっきの鋭い声なんて無かったかのように、それはとても穏やで、優しそうなものだ。
今のは本当にこの男が出した声なのか驚いているのは、僕だけのようだった。
肩に担がれている所為で顔も見えない女性は、医者を呼ぶべきか御島に問い掛けた。
そこまで大事にされたくは無いと焦ったけれど、御島はやんわりと断ってくれた。
「少し休めば大丈夫だと本人も云っていますから…奥の座敷を少しの間使わせて頂きます。それと、美咲さんにこの事をお伝え頂けますか、」
母の名前を知っていると云う事は、母とこの男は知り合いなのだろうか。
ただ驚く事しか出来ずに居る僕を置いて、二人は直ぐに会話を終えてしまった。
女性は横を通って、足早に廊下を進んでゆく。
見る気は無かったのに、通り過ぎる際に少し見えた女性の頬が、少し赤らんでいたのは気の所為だろうか。
御島は、どんな表情をしてあの女性と話していたんだろう。
御島について気にし始めていたけれど、彼は女性の方を振り返る様子も無く、再び足を進め出した。
やがて誰も居ない座敷へ辿り着いて、そこでようやく僕を下ろしてくれた。
まだ身体は少し震えていて、御島の顔が見れずに俯いてしまう。
「…少し脅かしただけだろう。そんなに怯えるな、」
溜め息混じりに呆れたような声が聴こえて、恐る恐る顔を上げようとすると、急にコートの釦に手を掛けられた。
驚く僕なんてお構い無しに、御島は釦を外してゆく。
コートを脱がされると云う事は、ゆっくり休ませる気なのだろうと判断するけれど、母が待っていると考えると、そんな事が出来る筈も無い。
「兎に角、寝ていろ。気分はどうだ、吐きそうか?」
畳の上に僕のコートを置くと、男はゆっくりと僕の身体を横たわらせて、あの大きな手でまた額に触れて来たものだから一瞬だけドキリとする。
僕はこんな風に頭を触って貰った事は無いし、こうやって誰かに傍に居て貰って、身体を気遣われた事も無い。
慣れない事をされて少し緊張したけれど、あの冷たい手の感触はとても気持ちが好かった。
けれど今度は、その感触にゆっくりと浸っている事は出来ない。
「だ、大丈夫です。あの、母が待っていると思うので…」
「ああ、あの女だったら男と電話中だ。部屋の外まで聞こえるぐらいの声で喋りやがって…淑(やかじゃねぇな」
自分の母を馬鹿にしたように云われて気を悪くし、咄嗟に御島を睨むと、相手は目を細く眇めて口角を上げるだけの冷たい笑みを浮かべた。
それは本当に、冷たいとしか云いようの無いもので………途端に寒気が全身を走って、
鋭く射抜くような双眸から目が離せなくなる。
身体が震えて、恐いから眼を逸らしたいと思うのに、逸らせない。
言葉を交わす時は母の眼すら見れない僕が、どうしてこんな、あまり良く知らない男の眼をずっと見ていられるのだろう。
「……ネクタイは、しない方が良いな」
「はっ?」
硬直したまま動けないで居ると、唐突に良く分からない発言をされて、間の抜けた声が零れる。
すると相手はゆっくりと身体を動かして、僕の上に覆い被さるような体勢になって来た。
鋭い眼差しも冷笑も相変わらずで、けれど雰囲気は少し柔らかなものになっている。
もしあの黒々しい雰囲気のまま、こんな風に覆い被されたら……きっと、殺されると勘違いしていたかも知れない。
「…こう云うのは、おまえには似合わない。」
伸ばされた御島の手が僕のタイを手にして、慣れたようにそれを緩め、あっさりと解いてしまう。
それを見て不快に思う訳でも無く、折角上手く結べたのに…と、僕はそんな事をぼんやりと考えていた。
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