黒鐡…07

「あ、の…幾分楽になりました、有り難うございます。母もそろそろ電話を終えたと思うので…」
 似合わない、と告げてから御島はそれっきり何も云わず、じっと此方を見下ろしているので何だか場の沈黙に耐え切れず、僕はそう切り出した。
 実際、身体は怠いし重いしで、とても一人で歩けるような状態じゃなかったけれど…
 病弱だからと言う理由で、他人に甘えたくなんか無かった。

「まあ待て。じっとしていろ…」
 上体を起こし掛けると、御島は僕の肩を抑え付けて、それを制止した。
 大して力を込めていないようだったが、抑え付けられている僕としては、肩が痛いぐらいだった。
 思わず痛みと少しの嫌悪感で眉を顰めると、その手は直ぐに離れてくれた。
「これぐらいで痛いのか?柔だな、」
 小馬鹿にしたように鼻で笑われたけれど、怒りは湧いて来なかった。
 全く持って、その通りだからだ。
 だから僕はすみませんと一言だけ謝り、だが御島は気を悪くしたように眉を顰めた。

「……言い返さないのか。つまらねぇな」
 苛付いたように云われて、でも僕は傷付く事なんて無い。
 つまらない人間だとか、そんな言葉は云われ慣れているし、何より自分でもそう思うのだ。
 だから僕はもう一度、すみませんと謝るだけだ。
 謝ると、御島は暫くの間眼を細めて僕を見ていて、やがてゆっくりとその口元が動いた。
「まあ良い。で、おまえ…名前は?」
 喋るのが好きなのか分からないけれど、御島はさっきから僕に話し掛けてばかりだ。
 自分の事を一方的に話されるのも苦痛だが、かと云って、質問されるのも好きじゃない。
 御島の双眸が鋭く冷たいし、その身に纏っている雰囲気も何だか威圧感があるから……………まるで、尋問されているみたいだ。
 それに、どうして父の傍に居た男が、僕の名を知らないのか……
 そこまで考えて、僕の名を覚えていなかった父の事を思い出し、一人で納得した。
 父の傍に居たとしても、肝心の父が僕の名を覚えていないのだ。
 御島が、僕の名前を知っている筈が無い。
 此処で名を教えて、それでこの男は覚えていてくれるのだろうかと、僕にしては珍しく、期待とも呼べる感情を胸に抱いた。

(すず)、相馬…鈴です」
 気付けば、殆ど無意識に自分の名を呟いてしまい、自分の発言に驚く。
 慌てたように口元を抑えた僕に向けて、御島はあの冷たい笑みを、うっすらと穏やかなものに変えた。
「すず…鈴か。…いいな、似合っている」
 名前が似合っているだなんて云われた事の無い僕は、驚くと同時に拍子抜けしてしまった。
 驚きで少し瞠目しながら相手を見上げると、御島は愉しそうにその口元を更に緩ませた。
「どうした、そんなガキっぽい表情しやがって…堪らなくなるだろう、」
 喉の奥で笑いながら機嫌良さそうに云う御島の、その言葉の意味が理解出来ない。
 堪らない、とは何だろう。
 子供みたいな表情をすると、どうして堪らなくなるんだろう。
 不思議に思いながら、まじまじと相手を見上げて、だけど直ぐにハッとして視線を逸らした。
 いつもあまり表情を変える事が無いのに、一体僕はどうしたのだろうか。
 慣れない事をされて、気が動転しているのだろうか……それとも、熱の所為だろうか。
 自分の事が理解出来ないなんて、そんな事が初めての僕は、戸惑うばかりだ。
 その上、深く考えようにも熱の所為で思考が鈍っていて、上手く頭が働かない。

 戸惑う僕に更に御島は顔を近付けて来て、一瞬息が止まるかと思いきや御島は何かに反応したように、直ぐに顔を離した。
 離れると緊張感は自然と薄れ、安堵した僕は、襖の方に視線だけを向けている男を見つめた。
 雰囲気がさっきよりずっと黒々しくて、身体が震え始める。
 すると相手はそんな僕に気付いたように、まるで宥めるように、僕の肩を優しく撫でてくれた。
 ………そんな事は、誰にもして貰った事なんて無かった。

「迎えが来たみたいだな…」
「え…、」
 目を細めながら呟く男を不思議に思っていると、次第に襖の向こう側から足音が聞こえて来た。
 起き上がろうとすると、男に寝ていろと言われて肩を押される。
 足音はやがて襖の向こう側でピタリと止まり、少し間を開けてから、それは開かれた。
 見ると、そこには母が居た。
 拙い、と思ったけれど、どう云う訳か母の顔には、不機嫌な色は少しも浮かんでいない。
「御島…久し振りねぇ」
 いつもとは全く違う、まるで媚びるような声色で男に話し掛ける母を見て、呆気に取られた。
 兼原と云う恋人が居る癖に、御島にまで色目を使っている母の気が知れない。

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