『 黒鐡 』
今は秋だと云うのに外の景色は寒々しく、冬を感じさせる。
布団の上に横たわって軽く咳込みながら、薄暗い天井を見つめた。
物静かな室内には僕の咳以外、物音は一切しなかった。
けれど次第に、襖一枚隔てた向こう側の廊下から、近付いて来る足音が嫌でも耳に入る。
静か過ぎる家の中では、あまりにも良く響く音だ。
祖父は僕が幼い頃にひどい肺炎で亡くなり、祖母も僕が中学に上がる前に亡くなった。
父は元からこの家には居らず、この家を訪ねて来る事すら無い。
だからこの家には、僕と母以外、誰も住んで居ない。
母は父の正式な妻では無く、愛人と呼ばれる存在で……でも、僕が生まれた頃には既に、お互い愛は冷めていたらしい。
祖父は何も言わなかったけれど、祖母は誰の子かも分からない僕を大層煙たがっていた。
母は父の事を、僕以外の誰にも云わなかったのだ。
幼い頃から、まるで思い出したように父の事を僕に少し語っては、黙り込んだものだった。
その沈黙が何を意味するものなのか、当時の僕は分からないし、今でも分からない。
かろうじて続いているような流派の家元が、僕の母に当たる人だ。
本来なら、母の直系である僕が家元を継ぐ形になるのだけれど、僕には華道の才能が無い。
それに身体も弱い上に、良く高熱を出して寝込み、幼い頃から散々母に迷惑を掛けて来た。
母からして見ればお荷物でしか無い僕は、高校を卒業してからは、ずっと家の中で過ごしている。
家元を継ぐ事も出来無い上、高校の頃はしょっちゅう倒れたり、
高熱を出して欠席したりと、散々迷惑を掛けまくったものだから…
母は大学に行くのも金の無駄だと云って、家で大人しくしているよう、僕に告げた。
彼女の言葉を聞いた時、傷付くよりも、確かにその通りだと思った。
ただでさえ、しょっちゅう医者に掛かったりして、金のかかる面倒な子供なのだ。
その上、大学なんて行ったら、もっと面倒を掛ける事になる。
どうせ何度も寝込んで、出席数が足りなくなるのだって目に見えている。
だから僕は、あっさりとそれを受け入れた。
「出掛けるわよ。支度をしなさい」
足音が襖の前で止まったかと思うと、半ば乱暴に襖は開けられ、母が淡々とした口調で云って来る。
歳はもう三十半ばを過ぎていると云うのに、息子の僕が云うのも何だけれど、綺麗なままだ。
もう既に彼女は支度をしているみたいで、不機嫌そうなその顔を見て、折角美人なのに勿体無いと考えた。
二日間も安静にしていたのに、まだ熱は少し有ったけれど、母はどうしても僕を連れて行く気みたいだった。
少し頭痛がする頭を片手で抑えながら、僕はなるべく急いで布団の中から這い出た。
あまり待たしてしまうと彼女の機嫌を更に損ねるので、直ぐに出掛ける支度を始める。
母は何処へ向かうとか云わなかったけれど、僕には察しがついていた。
今日は僕が、十九歳になる日だ。
毎年、と云う事は無いが、誕生日に当たる日は行く処が有る。
そこに行くのは、とても億劫で―――僕がどれだけ嫌な感情を抱えても、母は構わずに連れて行く。
僕が億劫がっている事すら、この女性は知らないのかも知れないけれど。
「早くしなさい。服は…面倒だから、制服で良いわ」
苛付いた口調で彼女はそう云い、荒々しく足音を響かせながら部屋を出て、襖を乱暴に閉めた。
あの場所に行くのは、三年ぶりだろうか。
もう行かなくて良いのかも知れないと、僕は薄々期待していた。
僕の歳もろくに覚えては居ない、ほんの気紛れで僕を呼ぶような―――そんな、好きでも嫌いでも無い、
たった一人の父の元へこれから向かわなければならない。
でも億劫なのは、父に会う事では無かった。
あの家に行くのが嫌で嫌で仕方ない理由は、父では無い。
頭の中で一人の男の姿を思い浮かべると、溜め息が自然と唇から零れた。
出来る事なら、苦手なあの人が居る場所へは行きたくない。
けれど自分の思い通りになる事など、昔から無いのだ。
いつからか身についた諦め癖は、直ぐに我儘な思考を掻き消した。
………大丈夫、直ぐ終わる。
今までして来たように、父の気紛れの話相手を務めて、時間が過ぎるのを待って……。
自分自身を説得するような言葉に自嘲的な笑みが零れそうで、
それを堪えながら、高校の頃の制服を取り出して着始めた。
高校を卒業してからもう大分経っているのに、それは変わらずにピッタリと身体に馴染んだ。
自分の体格が全く変わっていない事に気付かされて多少落胆し、鏡の前に立ってタイを結び、締める。
鏡に映る自分の顔を見て、溜め息が漏れた。
美人の母に良く似てしまっているこの顔も、男の癖に色白で背も低く、小柄で細い身体も嫌いだ。
暫く鏡を睨むように眺めていると、今自分が結んで締め終えたタイへと視線が降りる。
久し振りに結んだと云うのに、きちんと結べている事にいささか気が良くなった。
部屋から出て渡り廊下を歩き、少しフラつく足取りで母屋の玄関へと向かう。
僕の部屋は病弱だった祖父の部屋でも有り、離れにある。
病気がうつらない様にと配慮されての事か分からないけれど…僕はたまに、
まるで見捨てられて一人っきりの世界に居るように感じられる。
「三年も行っていないから、もう行かなくて済むのかと思ってたよ」
物静かな家の中では、張り上げるように喋らなくても、良く声が響いた。
靴を靴箱の奥から取り出し、丁寧に磨いて、少しヒールの高い母の靴も同様に磨く。
こう云った事を母は出来無い人だから、結局僕がやる事になるのだけれど、
母は男の僕がこう云った事をするのを良く思っては居ない。
「あんたの父親は気紛れ過ぎるのよ。ほら、もう良いから行くわよ」
急ぎ足で玄関へとやって来た母は声を掛けながら、いきなり手を叩いて来たものだから、僕は磨いていた靴を落としてしまう。
けれど母は謝罪する事もせず、僕が落としてしまったそれを当然のように取り、履き始めた。
「あんたね、もう少し男らしくなさいよ。こんな、靴磨きなんて男がやるものじゃないでしょう」
理想が高い母は苛立たしげに言葉を吐き、僕の方なんて全く見ずに玄関の扉を開けて外へ出てゆく。
別に褒められたくてやっている訳では無いけれど、何をしても褒められない事に対して、いささか物悲しくなった。
けれど僕は揺れる心を誤魔化すように、わざと急いで革靴を履き、母の後を追うように家を出た。
僕は、父の顔を覚えていない。
それは僕が、人の顔を常に見ようとしないからだ。
幼い頃から極度の人間嫌いで、他人の顔をちゃんと見ようとしないし、深く関わろうともしない。
母の顔はちゃんと見れるが、話し掛ける時は自然に目線が逸れてしまうから、眼を視ながらの会話は出来無い。
人間嫌いになった理由は自分でも良く分からないけど、今も変わらずに、他人の顔をじっくりと見れずに居る。
でも、母以外で顔をちゃんと見れる人は、もう一人だけ居た。
父の傍らに居たあの男を思い出すと、背筋に寒気が走る。
精悍でひどく整った男らしい顔立ちをしていて、その上長身で
黒のスーツをきちんと着こなして……同性の僕から見ても魅力が有って、格好良いと思えた。
けれど、雰囲気はとても冷たくて、恐ろしい。
何か禍々しいような、黒い獰猛な獣を感じさせるようなあの雰囲気が、僕は恐ろしくて堪らない。
あの男と会ったのは、まだほんの二回で……
父と言葉を交わしている間、何度も眼が合って、責めるように細められた冷たいあの双眸が、今まで何度も僕を凍り付かせた。
父と話している間ずっと、男は僕の方をずっと見ていて、初めは気の所為かと思ったけれど、何度も眼が合うのだ。
親子の会話を微笑ましく見守っているとか、優しい雰囲気なんて男には無くて。
冷たいあの眼は、僕をいつも睨んでいる。
同じ男なのに僕は痩身白皙だし、身体も弱い上、他人の顔も見れないような人間だ。
あまりにも男らしくない僕を、あの人はきっと嫌悪しているに違い無い。
理由も分からずに睨まれ続けるのは気に障るし、人の事でずっと悩み続ける事などしたくない僕は
そう決め付ける事で、悩む事を直ぐに終わらせた。
あの人はやっぱり、今日も僕を睨んで来るのかな……などと、僕は混雑した車内のドア付近に立ちながら、ぼんやりと考えていた。
時間が経つにつれて徐々に体調が悪くなり始めた事実と、人間が多過ぎる光景から
逃げるように、父やあの男の事を考えていた僕は口元を片手で覆った。
堪えきれず少しだけ咳込むと、隣に立っていた母の手が途端に僕の項へ伸びて来て、爪を立てるようにそこを抓った。
周りの人には気付かれないよう、工夫している。
こう云う叱り方はいつもの事だけれどやはり痛く、眉を寄せて俯くと、直ぐに母の手は離れた。
こんなに人が多く居る中で咳込む事は、母にとっては許せない事のようだ。
恥を掻くと母が思っているのかは分からないけれど、僕は強まる頭痛に悩まされて、息が詰まった。
母と外を歩く時でも、かなり間隔をあけて歩く程、他人の近くに居る事を好まない僕にとって混みあった車内は最悪だった。
一人の人が傍に居ると、多少息が詰まって落ち着かないだけで済むけれど、多すぎる人間の中に居ると吐き気や頭痛を催してしまう。
医者からは精神的な物だと云われたけれど、一向に治る気配は無い。
ただでさえ、体調が悪いのに……僕はそう考えて、息苦しさに眉を寄せた。
体調の悪さは、強まる一方だ。
「母さん…」
今からでも帰らせて欲しいと望みを篭めて、辛いのだと伝えようとした。
けれど、母は窓の外を見ていて、こちらを見向きもしない。
帰る事は許されないのだと判断して、仕方なく我慢する為に、なるべく視線を下に向け、周囲の人を見ないように努めた。
普段から自室に閉じこもってあまり外出しない僕に取って、人が多すぎる街中や電車内は、苦痛すぎる。
強まりそうな吐き気を抑える為に、目を瞑ってゆっくりと深呼吸する。
他の人はどうか知らないけれど、僕にはこれが結構効く。
深呼吸を繰り返しながら、早く駅に着いて欲しいと考えた僕は目を開け、窓の外へ視線を向けて、流れてゆく景色をぼんやりと眺めた。
駅に着けば、恐らく迎えの車が待機しているのだろう。
けれどその車には、父は乗って居ない。
あの大きく広い家で、さして愛しても居ない僕を待っているのだ。
父に愛されて居ないんだと分かっていても、傷付く事は無い。
僕は人の言動に傷付く事も、人との関係に悩んだ事すら無かった。
感情なんて無くて、冷たい塊の――――
まるで鉄のような心を持っている僕が、ただ、そこに存在しているように思える。
僕の心は多分、半分以上が空っぽだ。
三年前とあまり変わっていない家の門口を通り、広い庭を横目に僕は応接間へと案内された。
母は自ら別室へと足を進めてしまい、この部屋に居るのは僕一人だけだ。
父と母はもう長い間顔を合わせて居ないらしく、今日も合わせまいと
僕に背を向けて足早に別室へ向かったその姿を、退屈を紛らわすように思い出した。
畳の上で正座をし、体調の悪さに悩みながらも父を待っていると、障子の向こう側の廊下から忙しそうな足音が近付いて来た。
視線をゆっくりと障子へ移すと、その向こう側に二つの人影が見える。
けれど、僕は何も感じない。
あの黒々しくて、思わず震えてしまいそうな程に獰猛な雰囲気が、全く感じられないのだ。
あの人は、もう居ないのか――――。
そう考えた瞬間、僕は何だか、すとんと何かが落ちてゆくような、何だか分からない感覚を覚えた。
この感覚は何だろうかと不思議に思ったけれど、ゆっくりと開いた障子の向こう側から誰かが入って来たのを見て、直ぐに考えるのを止めた。
最初に入って来たのは、恐らく父だろう。
「待たせたな、」
まるで待たされたのは自分だとばかりに、何処と無く不機嫌そうな声で喋るのは、紛れも無く父だ。
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