『 胡蝶 』

 明かりの灯らない真っ暗な室内で、比鷺(ひろ)は深夜に目を覚ました。
 唇に何かが触れた所為で、急激に目が覚めたのだ。
 比鷺はたどたどしく指を這わせ、自分の唇に触れてみた。が、至って目立つ変化は無い。
 ほんの少しだけ半身を起こし、耳をそばだててみるも、特に変わった物音も無かった。
 闇の中では確認も出来ないが、さきほどの何かが触れた感触を思えば
 兄は恐らく、近くに居る筈だと予想がつく。

「兄さん…いるんだろう、」
 どこまでも続いていそうな暗闇に向けて、控えめな声量で問う。
 だが返答は無く、それでも比鷺は数回続けて、兄を呼んだ。
 数分だけ間を置いた後、闇の中から、低い笑い声が響く。

「そのまま寝ていれば襲ってやろうと思っていたのに…残念だ、」
「…研究論文は終わったの、」
「三日かそこらで終わるようなものなら、苦労しないさ。息抜きに、お前で遊ぼうと思ってね、」
「僕は兄さんの玩具じゃないよ。」
「本気に取るなよ、ヒロの悪い癖だ。本当は、お前と一緒に風呂にでも入ろうかと思って、誘いに来たんだぜ。 それなのに、可愛い弟は既に夢の中だ。この切ない気持ちが判るか、」
「兄さん…いま何時か分かっているの、子供は寝る時間だ。それに、おやすみなさいって声を掛けたのに無視したのは、そっちじゃないか。」
「何だ、お前。拗ねているのか、」
 暗闇の向こうから再度、笑い声が聞こえて来る。
 比鷺は憤りを覚え、素早く起き上がって片手を振り上げた。
 闇に包まれた空間では相手の位置を確実に把握出来無いが、比鷺は躊躇う素振りも無く
 当たれば良いと云った様子で、声が聞こえて来た方向へ平手打ちを食らわせようとする。
 が、その手は易々と、兄の手に捕らえられた。

 包み込むようにして手首を掴んで来たそれは、やけに熱く感じる。
 兄の体温は、どちらかと云えば低い方なのにと考えた後、比鷺はようやく、自分の身体が冷え切っていることに気付いた。
「お前、やけに冷たい手をしているな。恐い夢でも見たのか、」
「恐いとは、違う気がする。ああ、でもやっぱり、恐いかも…」
 言い終わらない内に、ベッド脇の間接照明が点けられ、柔らかな光が比鷺の目へ飛び込んで来る。
 目を移せば、鼻梁の高い、端整な顔立ちをした男が視界に入った。
 兄の好久(よしひさ)とは随分歳が離れているが、彼は、歳の割には若く見える。
 大学の助教授をしているのと、三十過ぎの歳を考えれば、もう少し落ち着いた態度を心掛けて欲しい。比鷺は、そう切に願う。
 しかしその願いも虚しく、兄は比鷺の前でだけ昔と変わらぬ態度を取る。
 黙っていれば、いい男なのにと、比鷺はいつも残念に思っていた。

「うなされていたのは、その所為か、」
「ねえ兄さん…普通さ、うなされていたら起こしてあげるものじゃないの、」
「起きただろう、キスだけで。」
「ああ、やっぱり。さっきの感触は現実だったんだ、」
 比鷺は片手で頭を抱え、溜め息を一つ零す。
 兄離れをする為に、好久からの口付けを今まで避けて来た苦労が、無駄になった気さえする。
 比鷺の苦労を知ってか知らずか、好久はベッド上へ腰を降ろし、口端を上げて笑った。
「それで、どんな夢を見たんだ、…話せよ、」
 シャツの胸元の隠しから、好久は煙草ケースとジッポライターを取り出した。
 就寝ぎりぎりまでネクタイを外そうとしない質の彼は、今もきっちりとそれを締めている。
 家の中だと云うのに良く息が詰まらないなと、毎度のことながら思う。
 一瞬の間をおいた後、さきほど好久に掴まれた手首へ視線を落とす。


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