『 Sweet Valentine Night 』
――もう知らない、大嫌いっ!
浮かない表情で窓の外を見つめながら、葵は今朝恋人に向けて放った言葉を思い出していた。
気を抜くと大袈裟な溜め息を吐いてしまいそうな程に、気は落ちている。
今日と云う日を楽しみにしていた分、余計に気落ちは激しく
机の上に置かれた小さな紙袋を眼にする度、深い溜め息が
零れそうになるのを、もう何度も目を伏せることで凌いだ。
恋人と今朝喧嘩をした所為でその中身を渡しそびれてしまい、葵は半ば途方に暮れた状態になっている。
恋人と喧嘩をするのは考えて見れば多い方で、
その上、自分が勝手に誤解して怒る、と云うパターンが多い。
今回も今までと同じで、相手の言い分も聞かずに一方的に怒り、
学校へ行くのを口実に葵は家を飛び出してしまった。
その上、携帯までわざと家に置いて来た為に、連絡も付かない。
だが本気で仲を直したければ、友人の携帯を借りてでも恋人に電話を掛けて一言謝れば済む話だ。
それが出来ずに居るのは、自分から謝る気にはなれないからだった。
恋人は大企業の社長な為、多忙な身で休暇もあまり無く、朝帰りなど珍しい事では無い。
最近ずっと朝帰りが続いていたが、今朝はいつもと様子が違っていた。
香水の移り香が、その身から漂って来たのだ。
その事を思い出すと、普段から嫉妬深い葵は胸が咳き上げるような感覚に悩まされる。
悲しげに眼を伏せ、葵は息苦しさに少し眉根を寄せた。
一方的に怒って、自分でも子供じみた事をしてしまったと、思う。
それは今日と云う日をとても楽しみにしていたから、余計に腹が立ったのだが……
結局は、自分の内面が子供じみている所為だ。
―――――浮気したんじゃないの?
―――――綺麗な人を、その腕で抱き締めたんじゃないの?
不安を抑え切れずに恋人の前で見っとも無く取り乱しながら、
そう問い掛けた自分の姿が頭に浮かぶ。
問い掛けても恋人は何も答えず、それ所かいつものように
腕を掴んで引き寄せて、強引に抱き締めて来た。
匂いがより一層ハッキリと分かった瞬間、馬鹿みたいに嫉妬で
頭が一杯になり、感情を爆発させてしまった。
(哀しい…切ないよ、)
直ぐに浮気を考えてしまうのは、自分に自信が無いからだ。
自信が無い所為で、愛する人まで信じられないのは、あまりにも哀し過ぎる。
時間が経つと徐々に冷静さを取り戻し、やはり謝ろうかと
何度も考えたが、あの匂いを思い出すと胸中は複雑になる。
気を紛らわす為に、教室の窓を通して景色でも眺めようかと、頬杖を付きながら傍らの窓へ視線を向けた。
だが窓硝子に映る自分の姿を眼にして、葵は思わず視線を逸らしたくなる。
顔立ちはまだ幼さが残るものの、整っていて申し分無い。
けれど葵は、自分の何もかもに劣等感を抱いている。
内面も、自分よりずっと大人な恋人を前にすると、あまりにも子供に思える。
いや、事実、子供なのだろう。
いつか愛想を尽かされてしまうのでは無いかと、常に心の片隅に、そんな不安を抱えていた。
恋人は同性で、その上血の繋がった実の父親なのだから………
この不安を、軽々しく人に打ち明けられる事など出来無い。
数少ない二人の友人は、父親と恋人で有る事を知っては居るが、相談し難い。
恋人に浮気の可能性が有るなど、みっとも無くて云い難く、
結局自分は相談など出来はしないと考え、葵は更に落ち込んでしまう。
教室内に響く生徒達の笑い声や楽しそうな声が、更に葵の気分を憂鬱にさせた。
「はぁ…、」
無意識に溜め息を吐いてしまい、葵は拙いと云うように片手で口を塞ぐ。
焦るように視線を周囲へ向けると、教室内に残っていた生徒の大半が、此方を驚いたように見ている。
昼食をとっていた生徒は手を止め、会話を愉しんでいた者達ですら、言葉を交わすのを辞めてしまった。
「藤堂、どうしたんだよ?何か悩みが有るんなら、俺が聞くぜっ」
「俺もッ」
「むしろ俺が…!」
生徒の一人が唐突に声を上げて葵の元へ近付き、それと同時に
他の生徒も我先にと、まるで餌を見つけたハイエナのように群がって来る。
だが葵の護衛役を務めている数人の生徒が、彼らを近付けさせまいと、直ぐに葵の周りを囲み始めた。
少し異様とも呼べる姿を眼にして、葵は何とか笑顔だけは返す事が出来たが、その笑顔も多少引きつっている。
いつもならこんな状況など慣れているのに、今日は気分が沈んでいる所為か上手く笑えない。
「悩み…って云う程の物かどうか、分かんないけど…」
葵は躊躇いながらも言葉を紡ぎ、例え話にして相談すれば
解決策が見つかるかもしれないと、少し縋る想いを胸に抱きながら言葉を続かせる。
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