『 鳥籠 』
地下へ続く階段を降り、頑丈な扉の鍵を開け、長身の男が中へと入ってゆく。
扉の向こう側は細い廊下が少し続き、奥には広い部屋がある。
一人部屋と呼ぶには、あまりにも広過ぎる室内のソファの上で、一人の青年が眠っている。
彼はベッドの上では無く、ソファの上で寝る事を好んでいる為、男は青年を移動させる気は全く無かった。
相手を起こす事もせず、ソファから少し離れた位置にあるスツールへと腰掛ける。
懐から取り出した煙草を口に咥えて火を点け、長い足を組みながら喫んだ。
サングラスの奥の瞳はまるで観賞するように、青年へ向けられている。
傘下団体百、組員二千人以上を擁する
桜羅会の傘下、樋口組組長の樋口
芳樹(は、青年を二週間近く此処へ閉じ込めていた。
広過ぎる円形状の室内に壁は無く、壁の代わりに鉄格子が天井まで伸び、高い天井はアーチを描いている。
更に、華奢な鉄格子の間には防弾硝子が嵌めこまれ、逃げ場など皆無と云っていい。
檻と呼ぶに相応しいこの部屋を見て、青年はまるでアーチ型の鳥籠のようだと呟いたが
檻も鳥籠も同じものだと思っている樋口は鷹揚に頷くだけだった。
青年の兄の
猛(も、桜羅会の若頭補佐だったのだが、数ヶ月前、抗争状態にあった松山組との
手打ち金三億を持ち逃げし、以来行方を眩ましてしまった。
裏切りとも呼べる仕打ちに暴怒したのは樋口ではなく、普段温厚な桜羅会会長、津川だ。
何としても捜し出して落とし前をつけさせろと、珍しく怒号を放っていた。
父親想いの猛が、実父と連絡を取り合っていると睨んだ樋口は、部下に猛の実家を張らせ、出向かせたりもした。
一度自ら出向いた時、偶然猛の弟である青年と出会い、それ以来は青年に会う事を目的にし、彼の家へ足を運び続けた。
ほぼ毎日のように青年を色んな所へ連れ回し、最初は戸惑っていた青年も次第に打ち解け、たまに笑顔まで見せるようになった。
その矢先に、猛が人目を忍ぶように家へと戻り、既に眠ってしまった青年の枕元で父親と会話を交わした。
青年は一度眠りから覚め、その会話を耳にしたものの、ハッキリと覚えてはおらず
目が覚めた時父親と兄は自分を置いて、二人で何処かへ逃げてしまっていた。
あの時、何を話していたのか。
それを思い出すまで、自分の傍に居てもらうと樋口は青年に云い、外には出さずにこの部屋へずっと閉じ込めている。
だが、青年をただ傍に置きたいと思っている樋口は、別に思い出さなくてもいいと考えていた。
自分の目の付く所に居て、触れようと思えばいつでも触れられる。
そんな今の状態が、一番好ましかった。
「ん…、ひぐちさ…」
静寂な空間に、青年の寝言が小さく響き、すぐに消えてゆく。
名前を呼ばれても青年の元には近寄らず、樋口は声も掛けずに相手を見ていた。
どうしてこの青年が何の抵抗もせずに此処に居るのか、樋口にはそれが不思議で仕方ない。
実兄の行ないに対し責任を感じているのか、それとも……自分と同じ想いを、青年も抱いてくれているのか。
樋口は苛立たしげに目を閉じ、都合の良いその考えを掻き消すように舌打ちを零す。
そんな夢のような事は、有る筈が無い。
現に青年は、自分をあまり見ようとはせず、言葉も短い言葉しか返そうとはしない。
それに……彼を此処へ閉じ込めて以来、笑顔を見せなくなったのだ。
それはもう、青年が自分を嫌悪し、恨んでいると理解させてくれるには、十分過ぎるものだ。
傍らにある、円形状の硝子テーブルの上に有る灰皿を引き寄せ、樋口は乱雑に煙草の火を消す。
頭の中では青年の父親が、自分に向けて必死で哀願して来る姿が浮かぶが、それは直ぐに消えた。
青年が、自分の名を呼んだからだ。
灰皿から視線を上げると、ソファの上で寝ていた青年は、上体だけを起こして不思議そうにこちらを伺っていた。
「…すみません、起こしてしまいましたか」
笑い掛けながら言葉を放つと、青年は何も答えずに首を小さく横に振るだけだ。
それを目にすると、樋口は無意識に一瞬だけ眉を顰め、ゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ昼時ですが…何か食べますか?」
こちらを伺っている青年に再度質問を投げるが、相手はやはり何も答えず、
ただ小さく首を横に振って、言葉も放たずに断るだけだった。
そんな青年の姿に心中で溜め息を漏らしながら、樋口は相手の方へと向かう。
だが、青年は樋口が自分に近付いて来るのを目にすると、慌てたように顔を背けるのだ。
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