『 溺れる小鳥 』


 広過ぎる円形状の部屋で一人、凪は小さな溜め息を漏らした。
 この部屋に壁は無く、壁の代わりに鉄格子が高い天井に沿って伸び、天井はアーチを描いている。
 華奢な鉄格子の間に嵌め込まれた防弾硝子の向こう側は、地下で有りながらも庭になっており、
 生い茂っている緑の中には樋口が凪と共に選んだ、凪の好みの花も多く紛れていた。
 茂った木々の間には小さな池も有り、そこには布袋葵が淡青色の綺麗な花を咲かせている。
 布袋葵は一日花で、翌日になると水の中に沈んでしまうのだが、凪は硝子に近付いて目に焼き付けようと見入る事もせず、
 ベッドの上に座り込んだまま、ずっと悩んでいるように目を伏せている。
 樋口と想いが通じ合ってから既に二週間が経過していたのだが、
 二週間前のあの日、結局、自分の所為で樋口と繋がる事は出来なかった。
 痛み止めが切れた為、まだ完全に塞がっては居ない傷口が、痛み出したのだ。
 優しい樋口は自分の身体を気遣い、やはり完全に治るまでお預けにしましょう、と漏らした。
 しかし凪はその言葉に納得行かず、痛み止めを再度服用した上で無理にでもして欲しいとせがんだ。
 だが、退院したいと云う我儘ですら受け入れた樋口は、流石にこれだけは、頑として聞かなかった。

 ―――――俺は、凪君を大切にしてやりてぇんです。傷つけたり、痛がらせたくなんか、無いんですよ。
 優しく微笑みながらそんな言葉を囁かれてしまい、凪は嬉しさでそれ以上言葉を返せず。
 納得したように頷くと、いい子だと褒めてくれ、何度も頭を撫でてくれた。

「いい、子…」
 自分の両手をじっと見つめながら、凪が小さな声で呟く。

 決して樋口には知られたくない事。
 知られれば、自分は樋口が云う、いい子では無くなる。
 そう考えていた凪の頭の中には、兄の猛を刺した、恐ろしい自分の行動が何度も駆け巡っていた。
 ………人を刺しただなんて知られたら、絶対に嫌われてしまう。

 いい子だから好きですよ、とか。
 凪君は素直で、大人しいから…堪りません、とか。
 樋口は今まで、そんな風に甘く囁いていた為に凪は、樋口が大人しくて、いい子で素直な人が好きなのだと、思い込んでいた。
 大好きな相手に対して隠し事をしている事に罪悪感を感じ、胸が痛むが、
 決してこの事だけは樋口には知られたくないと考える。

 ―――――折角、両想いになれたのに。
 片想いの時と同じように、悩みは別のものとなって、樋口と想いが通じ合った今でも、凪を苦しめていた。

「……樋口さん、」
 用事が有ると云って出て行き、もう三日も戻って来ない愛しい人の名を、ベッドの上へ横たわりながら呟くように呼ぶ。
 暇が取れれば直ぐにでも電話を掛けて来てはくれるが、凪の寂しさは強まる一方だった。
 樋口が傍に居ないとあまり良く眠れず、落ち着く事も出来無い凪は、もう一度深い溜め息を吐く。
 今夜も樋口は戻って来れないのかと、淋しさを抱えていた凪の耳に部屋の扉が開く音が聞こえる。

 慌てて起き上がり、廊下の方へと視線を向けた凪だったが、近付く靴音が樋口のものでは無いと直ぐに判断してしまう。
 樋口のそれは、こんなに急ぎ足でも無く、むしろ少しゆっくりしたものだ。
 まるで自分の獲物を怯えさせぬようにと、慎重に歩く、獣のような……
「凪様、」  樋口の姿を思い浮かべていた凪の耳に、少し明るめの声が響く。
 視線を上げると、そこには樋口組若頭補佐筆頭の阿久津が、
 猛の襲撃によって負傷した右腕を吊り、頭部に包帯を巻いた格好で立っていた。
 左手には携帯電話を持ち、凪に近付くとそれを差し出して来る。

「親分から、お電話ですぜ、」
 良かったですね、と軽く揶揄しながら笑うと、凪は少し顔を赤らめ、電話を受け取る。
 すると阿久津は邪魔すまいと足早にその場を立ち去り、廊下を通って部屋から出て行った。
「樋口…さん、」
 震えた声で名を呼ぶと、直ぐに樋口の穏やかな、優しい声色が返って来る。
「凪君、調子はどうですか?夕飯は食べられましたか?痛み止めは、きちんと服用しましたか、」
「うん。薬も飲んだし、ちゃんと食べたよ。でも、その…もう、薬飲まなくても、痛くないよ」
「それは良かった。傷も、もう大分塞がる頃でしょうね、」
 傷の回復を心から喜んでいる樋口の言葉に、凪の胸が熱くなる。
 目を閉じ、樋口の姿を思い浮かべながら、受話器の向こう側から聞こえる樋口の声に聞き入った。
「ねぇ、樋口さん……いつ、戻って来れるの?」
 今日中には戻って来れると云う言葉を期待し、凪は少し震えた声で尋ねた。
 だが樋口は即答せず、少し考えているような短い間を開ける。