溺れる小鳥…02
「すみません。正直、いつ戻れるかは分かりません。なるべく、早めに戻るつもりですが…」
「………そう、」
悲しげに短い言葉を返し、凪は期待した虚しさに心を痛めた。
悩みが有る上、愛する人が傍に居てくれない淋しさで、凪は今にも泣き出したくなる。
だが何とか堪え、少しでも淋しさを埋めるように、樋口の言葉に集中した。
他愛無い会話を幾らか続け、三十分程経った頃、そろそろ通話を終える事を、樋口が告げる。
「うん、じゃあ…」
「ああ…凪君。何か不自由は有りませんか?要望が有りましたら、いくらでも組員をこき使って構いませんから」
普段と変わらない口調でそんな言葉を吐かれ、凪は見えていないと云うのにかぶりを振った。
「…無理だよ、」
消え入りそうな程の弱々しい声が、凪の唇から漏れる。
不思議がりながら自分の名を呼ぶ樋口に向けて、凪は痛む胸を抑えながら口を開いた。
「僕は、樋口さんに、傍に居て欲しいんだもの……海藤さんや阿久津さんに頼んだって、樋口さんは、直ぐに戻って…来ない、でしょ…」
「凪君…、」
はっとしたような樋口の声が耳に響き、凪は堪え切れずに涙を零した。
泣いてしまった事に慌て、零れる涙を乱暴に腕で拭う。
「樋口さんは、僕と離れても、平気なの?……僕は、こんなに淋しいのに…僕、僕だけ淋しがって……バカみたい、」
嗚咽混じりに言葉を漏らし、凪は樋口の居ない広い鳥籠の中で、涙を零し続けた。
鳥籠のような部屋から出て、階段を登った扉の向こう側には、常に組員が待機している部屋が有る。
だが、その部屋に居るのは大抵、樋口組の執行部のメンバーだけだ。
樋口組若頭補佐筆頭の
阿久津は、黒い革張りのソファへと深く腰掛け、煙草を口に咥えている。
細く立ち昇る紫煙を眺め、今頃は樋口と愉しく一時の通話を楽しんでいるであろう、幸せそうな凪の姿を思い描く。
低めの硝子テーブルを挟んだ向かい側には、樋口の片腕とも呼べる
樋口組若頭
海藤(が、テーブルの上に置かれたモバイルノートの画面を無表情で見つめていた。
阿久津が凪の元へ持って行った携帯は自分の物である為、
凪にも携帯を持たすべきではないかと、無表情で有りながらも胸中ではそんな事を考えている。
無言の二人しかない静寂な室内に、唐突に携帯の着信音が鳴り響いた。
軽快な着信音を耳にし、そう云った曲を嫌う海藤は、不快そうに眉を顰める。
「はいはい、今直ぐ出ますって。ンな恐い顔、しねぇで下さいよ」
海藤の渋面を目にし、宥めるように言葉を吐きながら灰皿で煙草の火を消し、自分の携帯を取り出す。
利き腕が塞がっている為、折畳み式のそれを慣れない手付きで開き、電話に出た。
しかし、直ぐに海藤へと視線を向ける。
「カシラ、高橋建設の株券の件で、杉野から連絡入りました」
自分の携帯を差し出すと、海藤は無言で受け取り、通話相手へと指示を告げる。
その様子を眺めながら長い足を組み、新たに取り出した煙草を咥え、火を点けた阿久津の耳に扉の開く音が聞こえる。
が、開いたのは鳥籠のような部屋に続く扉ではなく、廊下側へと続く扉だ。
扉を開けた男は一礼してから部屋に入り、テーブルの上へカップを並べ、珈琲を淹れ始める。
「そうか…なら、整理屋の武本商事に例の株券直ぐに流せ。いいか…高橋ん所、喰い尽くしてやれ、」
無表情でそう告げる海藤を眺めつつ、阿久津はカップに手を伸ばす。
「やっぱ左手じゃ、飲み難いな……おい、飲ませてくれよ、」
ニヤつきながら部下をからかう阿久津に対し、命じられた男は素直に返事をする。
テーブルの上へ置き直されたカップへと男が手を伸ばした途端、阿久津は苦い顔をしながら男の手を払った。
「マジに取るんじゃねぇよ。男に飲まして貰うなんて、気持ち悪いっつーの」
「だったら、最初から云うな」
通話を終えた海藤が呆れたように軽い溜め息を吐きながら、言葉を放つ。
戸惑っている男には目もくれず、阿久津はニヤニヤと厭な笑みを浮かべ、足を組み直した。
「下っ端からかうのって、面白いじゃないっすか」
「お前の性根、腐ってるな。…おい、下がって良いぞ、」
海藤が顎をしゃくり、立っていた男へと声を掛けた。
手にしていた阿久津の携帯を、無造作にテーブルの上へと放ると、阿久津が悲鳴を上げる。
「カシラ、俺の携帯っすよ?壊れたらどうするんですか、」
「一々煩いヤツだな。壊れたなら、買えばいいだろう、」
大切そうに携帯を拾い上げた阿久津は、海藤の言葉を耳にすると、不快そうに眉を寄せた。
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