溺れる小鳥…03

「これは、俺にとってすっげぇ大事なモンなんです。アンタの小汚ねぇモバイルとは、訳が違うんですよ」
「何だと?」
 悪態をつく相手に対し、海藤も気を悪くしたように眉を顰め、阿久津をねめつける。
 あまり口論などしそうに無い海藤と阿久津の姿を、まだ退室していない男は狼狽しながら眺めていた。
 一瞬即発とも云える張り詰めた雰囲気の中、鳥籠のような部屋へと続く扉が、静かに開く。
「あ、あの…」
 部屋の中を伺うように、ドアの向こう側から少し顔を覗かせている凪が、恐る恐ると云った口調で言葉を発した。
「凪様?どうかしたんっすか?」
 顔を覗かせている凪へと、その場に居た者全ての視線が集中し、阿久津が灰皿で煙草の火を消しながら声を掛ける。
 海藤はソファから立ち上がり、扉を開けて室内へ凪を招き入れてやった。
「あ、あの、携帯、有難うございました」
 丁寧に頭まで下げながら、海藤に携帯電話を手渡し、礼を口にする。
 自分の携帯を受け取りながら、海藤は凪に頭を下げるのを直ぐに止めさせた。

「あれ?凪様、どうしたんですか?目ェ、赤いですぜ、」
 顔を上げた凪の表情をじっと眺めながら、阿久津が唐突に疑問を口にした。
 海藤も凪の瞼が少し腫れているのを目にした途端、眉を少し上げる。
 樋口が不在の時こそ、凪の身にはかなり気を配らなければいけない為、海藤はいささか焦っていた。
「どうされました、凪様。瞼も、腫れておられるようですが…」
 指摘され、慌てて気まずそうに凪は俯く。
 樋口との通話を終わらせてから、凪は暫く一人で泣き続けたのだ。
 その後は顔を洗い、30分程休んでいたと云うのに瞼の腫れはまだ完璧には引いておらず、
 携帯を早く返すべきだと考えていた為、凪は腫れが引くまでじっくりと休めずに居た。
 俯いたままでかぶりを振り、凪は顔をゆっくりと上げて苦笑を浮かべる。

「あの…ちょっと、樋口さんの声が聞けて、嬉しくて…」
 視線を逸らし、躊躇いながらも嘘を吐くものの、その場に居る誰もがその言葉を疑いもせず、信じ込んでいた。
「そう云う理由でしたか。……おい、冷やすものを持って来い」
「凪様の飲みモンも、頼むぜ、」
 下っ端の組員へ海藤が命じると、阿久津もすかさず言葉を放つ。
「あ、お…お構いなく」
 慌てたように凪が声を掛けるが、海藤と阿久津の二人に命じられた男は、直ぐに部屋を後にしてしまう。
 樋口の部下の手を煩わせてしまった事に対し、凪は申し訳無さそうな表情を浮かべていた。
「凪様は、ホントに控え目っすね。下っ端なんて、いくらでもこき使ってやりゃあ良いんですよ、」
 阿久津の問題発言に、凪はそんな事は出来無いと云ったように首を振る。
 半ば呆れながら阿久津の発言を耳にしていた海藤だったが、凪に向けて微笑み掛け、口を開く。
「組長との会話、楽しめましたか、」
 出来れば触れて欲しくなかった話題に触れられ、凪は少し沈んだ色を浮かべてしまう。

 結局凪が泣いても樋口は謝罪を零し、直ぐに戻るとは云わず、
 もういい、と短い言葉を残して凪から電話を切ってしまった。
 まるで拒否するような態度をしたのは初めてだった為、直ぐに凪は後悔し、
 暫く樋口が掛け直して来るのを待っていたが、一向に掛かっては来なかった。
 それが更に涙を誘い、暫く泣き続けた自分の姿を思い出しながら、凪は小さく頷いた。
 何処となく淋しげな凪の表情を眺めながら、阿久津は元気付けようと笑い掛ける。
「凪様、ヘーキですって。親分、直ぐに戻って来ますよ。明日ぐらいには、すっ飛んで帰って来るかも知れませんぜ?」
 樋口から直接、いつ戻れるかは分からないと聞いていた凪は、阿久津の言葉が気休めでしか無い事を悟る。
 だが、自分を元気付けようとしてくれているのだと理解し、凪は頷きながら阿久津に向けて、礼を口にした。
「いや…しかしアレっすよね。親分、三日も帰って来ない所を見ると相当、龍桜んトコの幹事長さんと、かなり熱愛中…」
 凪に礼を云われた阿久津は調子に乗り、場を盛り上げようと冗談を口にする。
 だがそれは凪の不安を煽るだけだと瞬時に気付いた海藤が、
 愉しそうに言葉を放つ阿久津の口を、乱暴に片手で塞いだ。
「お前は、要らん事を喋り過ぎだ。凪様が、不安がるだろう…」
 忌々しげに舌打ちを零しながら、海藤は阿久津だけに聞こえるよう声を潜める。
 少し鈍い阿久津は海藤の言葉を聞き、少し考えてからやっと、自分の発言が適切で無いと理解した。
「あ、あの……ね、熱愛中って…?」
 傷付いたような表情を浮かべている凪が、弱々しい言葉を紡ぐ。

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