溺れる小鳥…04

 凪のその様子を目にし、海藤は責めるような眼差しを阿久津へと向けた。
「凪様が思っておられるような事は、有りませんからご安心ください。…さっきの言葉は、このバカのでたらめです」
「カシラ、説明してやりゃあ良いじゃないですか。親分は龍桜会の幹事長と、五分の兄弟盃交わしてるって。
つーか、隠すと余計に、凪様が不安がりますぜ?」
 口を塞いでいた海藤の手を素早く外した阿久津は、喋るのが愉しいと云ったように言葉を漏らす。
 それに対し、海藤はあからさまに苛立ったような舌打ちを零した。
 この世界を知らない凪には、親子盃はおろか、政治盃や五分の兄弟盃すらも、分からないだろう。
 何も知らない凪に、わざわざこの世界の事を教え込む必要が有るのか躊躇われた海藤は、
 余計な事を口にした阿久津を忌々しげにねめつけていた。
 海藤の視線など気にして居ないように阿久津は笑い、けれど直ぐに、凪が極道の世界を知らぬ者だと思い出し、続けて唇を動かした。

「あ、五分の兄弟盃っつうのは、上下関係無しの、対等な関係にある兄弟分になる事でしてね……
親分がそんな盃交わすの、初めてなんっすよ。だから、すっげぇ熱愛ってワケで…」
「阿久津、おまえは黙っていろ」
 苛立ったように再度舌打ちを零し、海藤が普段より低めの、ドスの利いた声を放つ。
 その声に凪は怯えたように震えてしまうが、頭の中では先程阿久津が云った、
 熱愛中と云う言葉がずっと頭の中で駆け回っていた。

 ――――その、幹事長さんって人が傍に居るから、僕が居なくても、淋しくないんだ……。
 やはり淋しいと思っていたのは自分だけだったのだと考え、沈んだ表情を浮かべる。
 想いが通じ合えて、喜んでいたのも、結局は自分だけだったのかも知れない、と。
 そんな事まで考えてしまい、樋口はもう自分の事など嫌になったのではないかと、悪い方へばかり考えが進む。
 黙り込んだまま、沈んだ表情を浮かべている凪を目にし、海藤はどうするべきか悩んでいた。

 凪は大抵、海藤の言葉より、少し仲の良い阿久津の言葉を信用する。
 必死で誤解を解こうとした所で、どうしても阿久津の言葉はその心に残ってしまうだろう。
 だとすると、やはり凪が心の底から信用している樋口が、誤解を解くしか無い。

 ―――――たかがこんな事で、組長の手を煩わせるのか。
 溜め息すら吐きたくなる状況の中、海藤は取り敢えず凪をソファへと座らせてやる。
「凪様…先程の発言、気になるんでしたら…組長に直接、お訊きになられたらどうですか?」
 海藤が唐突に、自分の向かい側に座っている凪へと、丁寧な口調で声を掛ける。
「僕が、樋口さんに、直接?」
 自分にはそんな度胸なんて無い、と云いたげな眼差しが、海藤へと向けられた。
 だが海藤は柔らかく微笑んで見せ、凪を見据える。
「あの猛を刺した度胸が有れば、組長に訊くぐらい、造作ないと思いますが?」
「か、海藤さんっ」
 焦ったように高い声を上げた凪を、阿久津は驚いたように眺めていた。

「凪様が、猛を?何ですかソレ。俺、知らないですぜ」
 興味津々と云った様子で尋ねる阿久津に、海藤は無表情に戻り、一度視線を向ける。
「猛の野郎が組長を殺すと云ったらしく…それを聞いた凪様が組長を守ろうと考えて、咄嗟に刺したらしい。えらい度胸だろう?」
 普段無表情な海藤だが、凪の度胸有る行動を思い浮かべたのか、口元には笑みが浮かんでいる。
 しかし反対に、凪は泣きそうな表情を浮かべていた。

「ひどい、海藤さん…絶対云わないって、約束したのに…」
 樋口の留守中に聞き出した言葉と、交わした約束を思い出した海藤は、口の端を吊り上げた。
「組長には云わないと、約束をしただけですよ。誰にも云わないとは、約束していません」
 きっぱりと悪びれも無く告げる海藤を目にし、それまで言葉を挟まなかった阿久津が、やっと口を開く。
「何で凪様、俺に云わないでカシラなんかに云うんですか。カシラの事、好きなんっすかぁ?」
 揶揄するような言葉に、凪は慌ててかぶりを振り、否定する。
 海藤も呆れたように阿久津を一瞥し、やがて徐に言葉を紡いだ。
「普通に尋ねたら、答えて下さっただけだ。好きだとか、そんな感情は無い」

 本当は、ベッドの乱れたシーツや、手首を強く抑え付けられたような痕。
 そして異常とも呼べる猛の言動から、猛が凪を愛している事や、歪んだ愛ゆえに
 凪を無理に組み伏せた事を悟った海藤は、それをネタに凪を脅したからだ。

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