溺れる小鳥…05

 樋口に事実を捻じ曲げて伝えられたくなければ、猛を刺した理由を話すようにと。
 本当は未遂なのに、猛に最後まで犯されたと、海藤が故意に事実を捻じ曲げて
 樋口に伝え、それにより誤解される事を何よりも恐れた凪は、素直に理由を話した。
 だが、鋭い樋口は、猛が凪を組み伏せ、事に及ぼうとした事には既に気付いている。
 その上、未遂で有る事すら察していると云うのに……
 凪は猛に組み伏せられた事を、樋口は絶対に気付いていないと今も思っているのだ。

「へぇ、…つうか、どうしてそれ、親分には云わねぇんですか?云ったら、すっげぇ喜ぶんじゃ…」
「だ、だめっ、絶対云えない…樋口さんが、喜ぶ筈も無いし…」
 凪には凪の思惑が有るのか、何処となく沈んだ口調で言葉を放つその姿を、二人の男は不思議そうに眺めていた。
「えぇっと、そりゃ、どう云う事で?」
 凪の隣に座っていた阿久津が、自分の顎をさすりながら訊く。
 しかし凪はかぶりを振り、云えないと一言だけ呟いて、視線を落とした。
「……凪様、あの事、組長に云って差し上げましょうか。たっぷりと、捻じ曲げて、」
 海藤が意地の悪い言葉を吐くと、凪はぎょっとしたように視線を上げ、すぐに泣きそうな顔になる。
 本当に自分に優しい人は、樋口しか居ないのだと、凪はつくづく思う。
 責めるような眼差しを海藤に向けるものの、相手は気にもしていないように微笑んでいた。

「あの事って、何すか?カシラ、」
「凪様が、猛の野郎に……」
 無表情で言葉を放つ海藤の目の前で、凪が唐突に立ち上がった。
 泣きそうな顔をしているが、凪が実際に涙を零して、本当に泣いた所を海藤は見た事が無い。
 そう云う、少し気丈な所も、樋口に好かれているのだろうと海藤は考えていた。
「ひ、樋口さんは…僕が、大人しいから、好きでいてくれて……
いつも、凪君はいい子だから好きですよって、云ってくれるから…だから、」
 一度言葉を区切り、凪は自分の心を落ち着かせようと、深呼吸する。
 こちらを見上げている海藤を見下ろしながら、凪は再度唇を動かした。

「だから、僕が兄さんを刺すような悪い子だって知ったら……き、きら、嫌われるんじゃ、ないかって…」
 震えた声で告げる凪を見上げていた阿久津は、逆に好かれるのではないだろうかと考えていた。
 しかしその考えが確実である保障は何処にも無い為、あえて言葉にはしない。
「組長に云わないようにと、あれ程必死になって、約束を交わして来たのは…そんな理由からでしたか、」
 納得した様子の海藤の言葉に、凪は弱々しく頷いた。
 未だ突っ立ったままの凪を、宥めるようにして座らせた阿久津が、上機嫌そうに微笑む。
「凪様、めちゃくちゃ親分のコト、愛してるんっすね。」
「え…、どう云う、こと?」
「そこまで不安がるのって、過激に愛してる証拠ですぜ。
親分のコト、好きで好きで仕方ないって、俺には聞こえます。凪様、本当に可愛らしいっすねぇ…」
 ニヤニヤと笑いながら阿久津がそんな言葉を掛けると、凪は自分の発言を恥じたのか、少し赤面してしまう。
 羞恥で俯く凪を、笑いながら暫く見ていた阿久津だったが、一向に下っ端の男が戻って来ない事に気付く。
「あれから何分経ったと思ってんだ。…ちょっと、見て来やす」
 ゆっくりとソファから立ち上がった阿久津が、出入り口の扉へ向かってゆく。
 阿久津の後姿を眺めている凪へ向けて、海藤は手を膝の上で組み、少し真剣な表情を浮かべる。
「……しかし、凪様。そんな理由でしたら、猛の野郎を刺した理由、組長に告げた方が良いんじゃないでしょうか」
「え…、で…でも、僕…」
 躊躇いの表情を浮かべ、更に深く俯いてしまった凪の耳に、阿久津が扉を開ける音が聞こえた。
 それから、直ぐに阿久津の驚いた声が響き、咄嗟にそちらへと顔を向けた凪の目に、後退る阿久津の姿が映る。

「お…親分、いつからそこに…、」
 阿久津の正面には、煙草を燻らせて、サングラスの奥の目を細めている長身の男が立っていた。
 腕を組んで壁に凭れ掛かり、口元に笑みは浮かべているものの、目は全く笑っていない。
「ひ…樋口、さん…?」
 驚いたようにソファから立ち上がった凪が名を呼ぶと、樋口はやっとにこやかな笑みを浮かべて見せた。
 煙草を壁に押し付けて火を消すと、傍で待機していた男がすかさず吸殻を受け取る。
 先程、海藤と阿久津に、冷やすものと飲料を持って来るよう、命じられた男だ。

 とすると、一向に戻って来なかったのは樋口が居たからかと阿久津は納得しながら、身体を退けて道を開ける。

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