溺れる小鳥…06
だが樋口は手を伸ばし、阿久津の包帯が巻かれている頭部を、強く掴んだ。
「ナギのおもり…にしちゃあ、調子に乗りすぎなんじゃねぇか?阿久津よぉ…」
阿久津だけに聞こえるよう声を潜め、低くドスの利いた鋭い声を出すと、阿久津は青褪めた。
震えた声で謝罪の言葉を漏らす阿久津をねめつけ、だが直ぐに樋口は相手を解放して凪の元へと向かう。
「三日も留守にして…申し訳有りません。あれから、急いで車を飛ばしましたから……凪君が寝る前に、戻って来れましたね、」
微笑みながら、優しい声色で凪に話し掛ける樋口の姿を目にし、
阿久津は痛む頭部を左手で抑えながら苦笑を浮かべていた。
誰に対しても威厳を保ち、優しい声色など決して出す事の無かった樋口が、凪に対しては態度を一変させる。
そんな樋口を今まで何度か見ては来たが、やはり阿久津には、慣れないものがあった。
「く、組長…いつから、外にいらっしゃったんですか、」
ソファから腰を上げ、姿勢良く立っていた海藤が、恐る恐ると云った口調で尋ねる。
凪もそれが気になっているらしく、じっと樋口を見上げていた。
「そうだな…猛が俺を殺すと云って、それを聞いたナギが……猛を刺した、って所からだ。
確かに、えらい度胸だな……なぁ、海藤…」
海藤が凪を脅していた事もハッキリと聞いていた為、樋口の声には冷たい怒りが含まれている。
肌を焼くような黒々しい雰囲気を身に纏った樋口に、海藤の背筋が凍り付く。
凪も樋口の雰囲気に怯え、身体を小さく震わせていた。
「……凪君、部屋に戻りましょうか」
身体を震わせている凪の背を、宥めるようにゆっくりと撫でながら、穏やかな口調で言葉を放つ。
武闘派樋口組の組長とは思えない程の柔らかい微笑みを浮かべ、凪を連れて例の部屋へ続く扉を開けた。
先に凪を扉の向こうへ通した後、樋口は肩越しに振り返り、射抜くような鋭く冷たい眼差しを海藤に向ける。
「……暫く、誰も近付けるな、」
凄味の有る低い声で命じ、海藤の返事も聞かずに、樋口は部屋を後にした。
残された室内では、暫く沈黙が続くが、徐に部下の男が口を開く。
「組長のイロって、可哀想っすね」
唐突な発言に眉を寄せ、まだ少し青褪めたままの阿久津が、ソファへと腰を下ろした。
「何云ってんだ、おまえ…」
緊張が緩んだように深い溜め息を漏らしながら尋ねると、男は樋口が出て行った扉へ視線を向ける。
「だって組長、鬼サドじゃないですか。俺、さっきドアの前で挨拶しようとしたら、
黙ってろって云われて、首絞められましたぜ?
きっと、毎回毎回、悲鳴上げたくなるようなプレイしてんでしょうね」
以前桜羅会若頭補佐、榎本康史の拷問に立ち会った事の有る下っ端の男は、
樋口の残虐さを目の当たりにし、以来、間違った考えを抱いている。
――――悲鳴じゃなく、別の声ならあげているが…。
同じく緊張が解け、深く息を吐いた海藤が、腹の中でぼんやりとそんな事を考えていた。
だが、言葉には出さず……。
「下らない事云ってないで、仕事しろ」
すかさずそんな言葉を挟むが、阿久津は下っ端の言葉に笑い出し、取り出した煙草を咥えた。
自分で火を点けようとしたが、下っ端の男がライターを取り出して火を点ける。
「あぁ、サンキュー。…にしても、絞められたのか。可哀想になぁ……
つうかおまえ、さっきの親分の態度、見ただろう?親分は凪様には優しいんだぜ。
そりゃあもう、毎晩毎晩可愛がっちゃって……」
「へぇ…そんなんで、あんな華奢な人が身ィ、持つんですかね?」
「お前ら、いい加減に黙れ、」
興味津々と云った様子で男が訊き、すかさず海藤が再度言葉を挟む。
―――――数回で終わらせるぐらい、大事にしている。
だが腹の中ではそんな事を考え、モバイルノートへと視線を向ける。
いつもの無表情に戻り、仕事に掛かり始めた海藤には構わず、阿久津は会話を続けていた。
「その点なら平気っしょ。凪様がへばったら、一回でも終わらせてるし」
まるで行為中を目撃したと言わんばかりの阿久津の発言に、海藤の手がピタリと止まる。
ゆっくりと顔を上げ、阿久津を見据えて、海藤は口を開いた。
「阿久津、お前も、行為中を目撃したのか…」
「も?」
すかさず男と阿久津の異口同音の質問が飛び、海藤は失言を悔やむ。
何でも無いと云ったようにかぶりを振り、再度画面へと視線を向けた。
「………いや、何でも無い。仕事に戻れ、」
「何だ。カシラも結構、出歯亀してるんじゃないっすかぁ」
揶揄するような阿久津の声に気を悪くし、海藤は何も云わずに相手をねめつける。
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