『 凶犬 』
不機嫌な表情を浮かべた男が座る真向かいで、猛は長い足を組み、口元を緩ませながらソファの背に凭れ掛かっていた。
上衣を纏っていないその身体は若干細身だが、均整のとれた筋肉質な体躯をしている。
「猛、何さっきからニヤニヤしとるんや。気持ち悪いで」
眉を顰めて咎めるような口調で言葉を放つが猛は気にした様子も無く、自室に続く扉へと視線だけを向け、前髪を緩やかに掻き上げる。
「お前が携帯の電源を切りよるから、わざわざ此処まで出向いたんやぞ。分かっとるんか、」
「兄貴、あまり大きな声を出さないで下さい。凪が起きてしまう」
へりくだった態度すら見せず、若干声を潜めながら猛は言葉を返す。
吾妻は更に眉を顰めたが、不機嫌なその表情はすぐさま、意地の悪いものに変わった。
「凪が居るのに、女連れ込んで朝っぱらからヤッてたんか。お前も大分マトモになったの…弟の事は、辞めたんやな?」
猛が凪に対して強い執着を抱いている事を、重々知っている男は気を良くし、眼を細める。
自分の組にとって、無くてはならない存在が同性に……
しかも弟に現を抜かされていると云う倒錯的事実など、認めたくは無いのだ。
「吾妻さん、俺がそんな事する訳無いっすよ。俺は、死ぬまで凪一筋ですから」
愉しげに言葉を紡ぐ猛を前にし、吾妻は呆れた溜め息を大袈裟に吐く。
「なら、さっきの声は何や。ビデオ観とったとでも言うんか?」
「さっきのは、忘れて下さい。あの声は、本当なら誰にも聞かせたくないんで…」
口元は相変わらず緩んではいるが、猛の双眸は射抜くような鋭さを持っている。
まるで今にも喉を喰い千切って来そうな雰囲気に、吾妻は冷や汗が背に伝うのを感じた。
「…凪はまだ、寝とるんか。子供は呑気なもんやな」
双眸から目を逸らして話題を変えると、猛は抑え気味の笑い声を立て、片手で目元を覆って俯いた。
肩を揺らし、堪えきれないとでも云うように、低い声で笑い続けている。
「何や…ホンマに今日、変やぞ」
「いえ。凪なら、まだ気絶……寝てますよ。やっぱり子供には、刺激が強すぎたみたいっすね」
猛は隠す気が有るのか無いのか、危なげな言葉を放って可笑しそうに笑う。
決して鈍い男では無い吾妻は、耳にした言葉に軽く瞠目した。
猛の異常なまでの、弟への執着は知っている。
考えて見れば、猛があの弟にいつ手を出しても可笑しくは無いのだ。
「お前、まさか……いや、まさかな。俺の勘違いやな、」
思い付いた考えを否定する為に、吾妻はゆっくりとかぶりを振りながら呟く。
その背後で猛の部屋側から扉が開き、少し俯き加減の凪が、片目を擦りながら出て来た。
扉の開く音を耳にした吾妻は、警戒して素早く肩越しに振り返るものの、幼い少年が視界に入ると表情を穏やかなものに変える。
此方に気付いていないのか、顔を上げる事無く数歩足を進めた凪に向けて、吾妻は口を開く。
「凪…今起きたんか? えらい寝坊助やの、おぉ?」
ソファの背凭れへ肘を掛けながら揶揄すると、凪はピタリと足を止め、驚いたように顔を上げた。
普段と違った凪の反応に、吾妻は僅かに眉を顰める。
「おはよう、凪。後で一緒に風呂入ろうか…身体、ベタベタしてて気持ち悪いだろう?」
吾妻とは対照的に猛は愉しげに眼を細め、凪だけに視線を注ぎながら、まるで行為を思い出させるような言葉を放つ。
すると凪は見る見る内に赤面し、耳元まで顔を赤らめて深く俯くと、すぐに踵を返して逃げるように猛の部屋へと戻ってしまった。
その様子を、吾妻は半ば唖然とした表情で見送る。
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