理想の犬?…02

 だが自分自身の魅力に気付き、更にそれを使いこなしているのだから、弟は質が悪いのだ。
「大事なお願いが一つ有るんだ。お爺様の所持していた物とか…遺影も、この屋敷の何処にも置かないで。見るだけで、吐き気がするから」
 微笑みながらそんな事を口にする弟を見下ろし、男ははっとしたように目を見開いた。
 驚きの表情を浮かべている男とは違って、千尋の顔は全く変わらず、魅力的な微笑みを浮かべたままだ。

 祖父の骨上げ時の、弟の狂態を、男は思い出していた。
 骨壷に収められた祖父を、骨壷ごと床に叩きつけようと暴れた弟の姿。
 その姿を見て何となく、祖父がこの弟にした事を察し、ろくに家に戻らなかった自分を責めた。
 弟に対して負い目が有る限り、男は自分が兄で有るにも関わらず、千尋には厳しくなれない。
 弟を救えなかった自分には、何も口出しは出来無いのだ。
 最近の千尋の、異常な行動を知っていても、男は何も云えない。

「分かった。……庭の薔薇園はどうするんだ?あれも祖父が……」
「あれは放っておいていいよ。あそこでは、酷いコトされなかったから」
 さり気無く重々しい言葉を挟まれ、男の表情が強張る。
 けれど千尋の表情は相変わらず、魅力的な微笑みを浮かべたままだ。
「それじゃあ僕、学校が有るからそろそろ行かなくちゃ、」
 綺麗な姿勢で正座をしていた千尋は、ゆっくりと立ち上がり、もう兄には興味ないと云ったように、男には目もくれず部屋を出て行く。
 千尋の行き先が、学校では無い事ぐらい、知っている。
 けれど男は何も云わず、千尋の後姿を見送った。



「毛並みが黒で、雰囲気は気高そうだけれど、どこか野性的で雄々しい……とすると、ドーベルマンかな。でも…大型犬じゃないし。」
 自分の身体を覆い隠すほどの、大型犬が一番良いのだけれど、それでは、化け物だ。

 殺風景な公園内、制服姿の千尋は一人、ブランコに座りながら空想に耽っていた。
 自分の命令をきちんと聞いて、従順で……自分以外には決して懐かない犬。
 そんな理想通りの生物など、この世界に存在するのだろうか。
 ブランコを軽く揺らし、少し遠くのベンチの上に置かれた自分の学生鞄を、ぼんやりと眺めた。
 学校へは、たまに行っている程度だ。
 いつか退学になるかも知れないけれど、別にそれでも構わない。
 楽しみが見出せない千尋にとって、学校ほど退屈なものは無いからだ。

 自分の揺らすブランコが、キィキィと音を立てる。
 昼間だと云うのに物静かな公園は、野良猫の姿すら見当たらない。
 殺風景な公園内を一通り、目で見回した千尋は、ベンチ近くのゴミ箱へと近付いてゆく人影を捕らえる。
 汚らしい格好で肌も薄汚れている姿を見る限り、浮浪者だろう。
 その姿を確認するなり、千尋はブランコを降りて、急ぎ足でその人物の元へと近付く。

「おじさん、」
 響きの良い声で呼び掛けると、無精髭を生やした汚らしい男は、怪訝そうな顔で振り返る。
 が、千尋の姿を目にした途端、表情は柔らかいものに変わった。
「おぉ、坊主。」
 上機嫌な口ぶりに、千尋は嬉しそうな微笑を浮かべる。
 邪気の無い、愛らしいその表情に見惚れてしまった所為か、相手は一瞬だけ間を置いた上で、口を開く。
「今日も遊びに来たのかい?向こうにみんな集まってるから、おいで」
 汚れた指が差した方向は、少し木々が鬱蒼とし、更に薄暗いところだった。
 けれど千尋は迷いの表情も見せず、端整で魅力的なその顔に笑みを浮かべたまま、頷くだけだ。
 一度ベンチへ戻って学生鞄を掴み、男の後ろを追うように、千尋は暗闇の先へと進みだした。



「おぉ、坊や。また来たのか、」
「こっち、こっちにおいで」
「いいや、俺の隣だ、」
 木々に囲まれた薄暗い中で、数人の浮浪者達が地面にシートを敷き、呑気に語り合っている。
 中では千尋を巡って小競り合いをしてしまう程、彼に夢中な男達も居る。
 だが、鶴の一声のように、千尋が喧嘩をしないよう告げれば、男達は直ぐに黙るのだ。

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