Sweet Valentine Night…04
それは葵も知っていて、今まで何度かそんな彼を前にして来たが的確なその言葉に、度々呆然となってしまう。
何か言葉を返したかった筈なのにそれを見失い、南の服を掴んでいた手を、力無く下ろした。
だが下ろしかけた手は南の手に取られ、軽く握られる。
「彰人さん、待っているんだろ」
軽く微笑みながら穏やかな口調で話し掛け、ゆっくりと足を進めながら葵の手を引いてやる。
手を繋ぐ事に抵抗すら見せないのは、南を友人だと心底思っているからだろう。
けれど南は少し、苦笑すら浮かべたくなる程の切なさを、胸に抱く。
「南、父さんだって事…知ってたの?」
控え目な問いに、南は振り向かずに頷く。
葵と手を繋いでいる事に対して周囲の生徒が騒いでいるが、南は全く気にした様子は無い。
昇降口まで進み、正門前の男の姿が視界に入った葵は、
手が繋がれている事すら忘れて慌てたように走り出そうとした。
だが南は葵の手を離さずに引き、その所為で走り出す事も叶わなかった葵は不満そうに此方を見る。
「葵、靴…」
南の視線を辿るように自分の足元へ目を向けた葵は、靴を履き替えていない事に気付かされた。
少し走れば届く距離の恋人を前にして、我を忘れ掛けていた自分があまりにも恥ずかしく感じ、葵は微かに赤面する。
「あ、ご…ごめん」
急くように靴箱の方へ近付くが、しきりに外の方を気にしながら靴を履き替え始める。
その瞳には、恋人しか見えて居ないのだろう。
輝いている、と表現しても良い程に嬉しそうな表情を浮かべている葵を、南は少し複雑な想いで見守っていた。
「南、ありがとう。じゃあ、またね」
繋いだ手を惜しむ様子も無く離し、葵は鞄と紙袋を揺らしながら走り出す。
恋人の元へ急いで向かう葵は、具合が悪いと自分で云った事すら忘れているのだろう。
本当に葵は、彰人の事が心底好きなのだと考えた南は
嬉しそうに駆けてゆくその姿を、微かな苦笑を浮かべて見送った。
「父さんっ」
車に寄り掛かっている男へ向けて走りながら呼びかけると、
男は端整なその顔にうっすらと微笑を浮かべた。
少しばかり両手を広げた男の、自分を迎え入れてくれるような行動に、葵はやや涙目になってしまう。
躊躇いも無く相手の胸へ飛び込み、寂しさを埋めるようにきつく抱きつく。
男が来てくれた嬉しさで、今朝の喧嘩の事すら頭の中から消えてしまっている葵の耳には、
教室から響く生徒達の叫び声や悲鳴など、気にならない。
他の教室からも生徒が窓から顔を覗かせ、抱き付いている相手は一体誰なのかと、
喚き声が混ざった問いが幾つも飛び交っている様子に、男は低い笑い声を零す。
「…結構な人気だな。倒れた子も居そうだ」
甘く低い声が耳の奥へと心地好く響き、葵を少しばかり恍惚状態にさせる。
浸るようにいつまでも抱き付いたままで離れようとしない葵に、
男は喉奥で笑うと少し身体を離し、葵の顎をゆっくりと指で掬い上げた。
「困った子だ。そんなに物欲しそうな顔をして…私を誘っているのか?」
揶揄混じりに問われ、ようやく我に返った葵は慌てたように相手から離れ、何度も首を横に振って否定を表した。
「も、物欲しそうな顔なんて、してないし。それに誘ってなんか…」
早口で捲くし立てている辺り、相当焦っているのだと伺える。
焦る姿を愉しむように男は眼を細め、口の片端をうっすらと上げる。
「彰、人…っ」
そんな魅力的な表情が堪らなく感じた葵は、無意識に誘うような声を零してしまい、
直ぐに自分の出した声に気付くと慌てて視線を逸らす。
少し赤面して悩ましげに眉を寄せるその姿は、どれ程の人間を惑わせる事が出来るのだろうかと、彰人は考える。
教室の窓から身を乗り出すように、此方を眺めている生徒達へ視線を向け
今の葵の姿を見たら卒倒する者も少なくはないかも知れないと考え、彰人は僅かながら苦笑した。
「葵、車に乗りなさい。此処ではじっくりと、話が出来無いからな」
柔らかな声色に、やや陶酔し掛けた葵は少し遅れて頷き、促されるように助手席へと乗り込んだ。
「自分で運転するのも珍しいけど、学校まで来るのって初めてじゃない?」
運転席の彰人をチラリと見遣り、不意に葵が尋ねる。
葵が藤堂グループの御曹司だと云う事は知られていない為、何が有っても学園には来ない筈なのに
来てくれたと云う事実が暫くの間、葵の心を躍らせていた。
だが車が発進して学園を離れるにつれて、葵の頭の中では今朝の喧嘩の光景が、何度も浮かんでは消えてゆく。
「ああ、だが…私だと分かった者は居なさそうだな」
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