Sweet Valentine Night…05

「大企業の社長サマがあんな所に一人で来るなんて、誰も考えないよ」
 軽い溜め息混じりで言葉を掛けるが、彰人は鷹揚に頷くだけだ。
 この胸の内の強い不安など、察してもいないのだろうと考えた葵は、少しばかり寂しい気持ちになる。

(話ってやっぱり、浮気しちゃってごめんなさいって事かな…)
 暗い考えを抱き、伏し目がちになりながらも、葵はうっすらと唇を開く。

「…そう云えば、坂井は?」
 必ずと云って良い程、常に彰人の傍に居る専属秘書の姿が今は何処にも見えない事を、今更ながら不思議に思う。
「私の椅子に座っている。感動モノだろうな」
 平然と答える彰人の言葉に、葵は不安げな色を瞳に浮かべた。
 彰人に対しては少々口煩い所が有るあの坂井が、大人しく椅子に座っているなど考えられない。
「椅子に縛り付けでもしたの?」
「…疲れ果てて、今は私の椅子の上で大人しく眠っている。」
 平然と放たれた言葉が葵の耳奥に届くが、ショックがあまりにも大きくて、
 甘い響きすら感じさせるような彰人の声に浸れない。
 ゆっくりと彰人の方へ視線を向け、葵は微かに震える唇を薄く開いた。

「それ…それって、坂井と、したって事?」
 弱々しい声で問う葵を横目で一瞥し、彰人は軽い溜め息を零す。
「冗談だ。何度も云っているだろう、坂井は私の好みでは無いと」
「じゃ、じゃあ、好みな人とだったらするんだ?あの香水の人とだって…」
 狼狽えながら問うて来る葵に、彰人は呆れた様子で再度溜め息を吐いた。
 何故そんな考えになるのか、毎度の事ながら不思議で仕方が無い。
「葵、その妙な考えに走る癖、改めなさい。」
 冷たい口調で言葉を掛けると、葵は悲しそうに目を伏せ、反論もせずに俯いてしまう。
 今まで彰人は、葵の性格や癖を直せなどと本気で思った事は無いと云うのに
 葵はいつも、彰人に云われた言葉を本心と捕らえてしまう傾向が有る。
 葵に対しては心が広くなる為、本人が自覚している子供染みた面も別に悪い気はしないが
 一人で悩み過ぎて、いつか妙な行動に走らないか、少々気掛かりだ。

「父さん、何処に行くの…?」
 遠慮がちな小さな声が車内に響くが、彰人は何も答えようとはしない。
 言葉の代わりに、車が静かに停められた事が答えのようで、葵は窓から外を覗いた。
 一般人が気軽に入れそうに無いような、豪華で高そうな、大きなホテルが目に映る。
 こう云ったホテルは彰人と良く来る為に今更驚く事は無いが、
 何故此処に来るのか分からず、葵は不思議そうに少し首を傾げた。
「葵、降りなさい。」
 訝っていると短い言葉が掛けられ、葵は彰人の方へ視線を向ける。
 だが切れ長の黒い双眸と目が合うと、慌てたように葵は目を逸らしてしまう。

 美形と呼ぶに相応しい程に整った、隙のない精悍な顔立ちや
 人を惹き付ける魅力を持っている彰人は本当に格好いいと、葵は常々思う。
 速まる動悸に自分の余裕の無さを実感させられ、やや悔しそうに目を伏せた。

「うん、でも…何でホテルなの?家に帰るのかと思ったのに…」
「明日は休みだろう。それとも、私と一緒ではご不満かな?」
 微笑をうっすらと口元に浮かべながら低い声色で言葉を返され、葵はやや赤面して、首を何度か横に振った。
 二人でゆっくりと過ごせる事を、不満になど思える訳が無い。
 思わず嬉しさで口元が緩み掛けたが、今朝の喧嘩の内容が唐突に頭に浮かんでしまい、葵は心底喜べずにいた。
 溜め息を吐きそうになるのを抑えながら車から降りると、直ぐに二人の男が駆け寄って来る。
 一人の男は運転席側のドアを丁寧な仕種で開け、車から降りて来た彰人へ深く頭を下げて見せた。

 その二人は彰人の部下だろうと考えた葵は車から少し離れ、
 男達に何か言葉を掛けている彰人を、ホテルの入口近くから眺める。
 だが数分も経たない内に話は終わったのか、男達は彰人の車に乗り込むと直ぐに去って行った。
 此方に近付いて来る彰人を眺めながら、あの二人は恐らく車を停めに行ったのだろうと、葵は考える。
 が、急いた様子も無い足取りで距離を縮めた彰人が、ドアマンが居るのにも関わらずに
 唐突に肩を抱き寄せて来た所為で、葵の頭の中は真っ白になってしまった。

「と、と…父さん…?」
 焦る葵を見て喉奥で低く笑うと、入口を通って中へ入り、彰人は葵の耳元へ少しだけ顔を近付ける。
「少し、待っていなさい」
 声を潜めて囁くと、葵を残して颯爽とフロントへ向かってゆく。
 堂々とした長身の姿に見惚れるように広い背を見つめ、彰人が先程囁いてくれた耳元へと
 無意識に片手を伸ばした途端、葵は気付いたように自分の制服へ視線を走らせた。

4 / 6