Sweet Valentine Night…07

 それは決して嫌な寒気では無く、むしろ興奮を掻き立てるようなもので、葵は顔を赤らめて俯いた。
 そんな葵の様子を愉しむように、彰人は相手を暫く眺めていたが、机の上に置いた紙袋へ一度視線を向ける。
 不意に零れそうになった笑みを堪え、葵が振り向く前に視線を素早く戻す。

「お前に一つ訊くが…今日は何の日か、覚えているのか」
 静かな口調で問うと葵は躊躇いがちに振り向くが、その目は気まずそうに逸れている。
「し、知らない…」
 今朝の喧嘩をした光景が頭に浮かび、強い嫉妬が心中で渦巻くのを感じながら、葵は眉を寄せて少し躊躇いがちに答えた。
 葵の声が微かに震えている事に気付くが、敢えて指摘はせずに彰人はわざとらしく、残念そうな溜め息を零す。

「……そうか。葵の私に対する愛は、所詮そこまでの愛なんだな」
 彰人が少しばかり悲痛な表情を浮かべると、それがかなり効いたのか、
 葵はどうすれば良いのか分からないと云った、今にも泣きそうな表情を見せた。
 徐々に顔を下げてゆく葵から目は逸らさず、溜め息を再度吐くと
 完璧に俯いてしまった葵は、反応するようにビクリと肩を揺らす。
「…れ、なの…」
 少し沈黙が流れた後、か細く震えた葵の声が、彰人の耳に届く。
 状況を少しばかり愉しんでいた彰人だったが、葵の泣きそうな声に、僅かばかり眉が寄る。
「葵、聴こえるように、もっとしっかりと喋れ」
 冷ややかな口調で叱るように声を掛けられてしまい、俯いている葵の肩が微かに震え始める。
「誰…なの、あの香水…つけてる、人は…」
 微かな嗚咽を交えながら、目元を幾度も擦り始めた葵の姿を目にすると、その華奢な身体を抱き締めてやりたくなる。
 もう少し虐めてやりたい所だが、泣かれてしまっては、辞めざる負えない。
 相手はたった一人の息子であり、更にその上で、何よりも大切な恋人なのだ。

「浮気を期待しているのなら、まず外れだ。」
 宥めるような穏やかな口調で声を掛けると、葵は驚いたように顔を上げた。
 少し赤らんだ濡れた瞳が、不安と困惑の色を浮かべている。
 頬を伝う涙を、彰人は指で優しく拭ってやるが、葵は逃れるように身を引いた。
 きちんと話を終えるまでは甘い雰囲気に流されたくは無く、距離を置くように離れてから、葵は唇を薄く開く。

「じゃあ…あの香水は、何なのさ…」
「疑り深い奴だな。お前も良く世話になっている、CRK社長夫人のものだ。」
 そこまで聞くと葵の頭の中では品の良い、美しい夫人の顔が浮かぶ。
 世間では葵は、同姓の藤堂夫妻の子供となっており、親が必要な
 学校での面談や行事などの時は、度々夫人に世話になっている。
 夫人はあまり着飾らないが、香水の匂いだけはキツかった事を思い出した葵は、徐々に冷静さを取り戻し始めた。
 冷静になってきちんと考えれば、今朝の移り香も、夫人の香水と似ている気もする。
 葵はばつが悪そうな表情を浮かべるものの、直ぐに眉を寄せ、責めるように彰人を見つめた。
「だったら何で、朝そう言ってくれなかったの、」
「勝手に怒り出して、話も聞かずに家を飛び出されてはな…」
 そう答えた彰人が僅かに苦笑している事に気付き、自分の子供っぽさを咎められているように感じた葵は、少しむきになる。
「なら、直ぐに追いかけて来てくれたって…っ」
「…いい加減にしなさい、可愛くないぞ」
 冷たい口調で言葉を放つと、彰人は葵から離れて広いソファーへと進み、腰を下ろした。
 長い足を組み、後ろ側に立ち尽くしているであろう葵の方を、振り返ることもしない。
「別に、自分が可愛いだなんて…思って、ないよ…」
 震えた声で本心からの言葉を放つが、此方を振り向いてはくれない彰人の背中を見つめていると、胸は痛くなる。

 自分はもしかしたら、愛想を尽かされてしまったのでは―――?
 そう思うと不安はより一層強まり、葵は自分の胸元を握り締めて目を伏せる。

「みんなが騒ぐ程の、魅力なんて…無いって、分かってるし…」
 言葉を続かせても彰人は振り返る気配も無く、
 それがあまりにも辛く感じた葵は、震える足取りでソファーへと歩み寄った。
「父さん…ごめん、なさい…」
 後ろから彰人に抱き付き、肩口に額を押し付けて謝罪を零す素直な葵の姿に、彰人は口元に微かな笑みを浮かべた。
 本当に、可愛らしくて堪らないと、彰人は思う。

「全く…私はそんなに、信用が無いのか?」
 手を動かし、葵の髪を指で梳くように撫でながら問うと、葵は微かに首を横に振った。
「…だって彰人は大人でカッコイイし、僕なんか全然子供で、駄目だから…」
 髪を撫でてくれる優しい感触があまりにも嬉し過ぎて、涙が零れる。

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