Forget me not…06

 その時の出来事は、今でも昨日の事のように覚えている。
 咳を止めるよう怒鳴り、男はいつものように僕に手を上げようと拳を振り上げて…
 その手を、彰人が掴んで止めてくれたんだ。
 幼い頃の僕は、その時、彼を神様だと思い込んだ。それ程に、僕の目に彰人は輝いて見えたのだ。
 眉根を寄せて不機嫌そうな表情を浮かべていて…
 男の身長を上回る程の長身と、逆らえない様な雰囲気を彰人は持っていた。

 その時の姿は、本当に…本当に神様みたいだった。
 神様が居るとしたら、きっとこの人の事なんだろうと、僕は真剣に考えたんだ。
 それから、怯む男をいとも簡単に押しやって、僕を急に抱え上げて
 車に押し込んで、そのまま僕を連れ去ったのだ。
 強引な所は今とあまり変わらないけれど……ある日突然現れて、
 自分の父親だと名乗られても僕は、すんなり受け入れられた。
 きっとあの日から、僕は彰人に惹かれていたんだろうな。
「その様子じゃ、やっぱり葵…知らないんだ?」
 意味深な雪之丞の態度と言葉に、一瞬ドキリとする。
 僕の知らない事を、彼は知っているみたいで…良くない事だったらどうしようと焦り始めた。
「彰人さんの息子、彰宏って言うんだって」
「え?」
 雪之丞は何を言っているんだろう。
 息子?彰宏?何の事だろう。
「だから…有名大企業の、藤堂社長の一人息子は…彰宏って名前なんだってさ。オレの親父が言ってたよ」
 雪之丞のお父さんも、大会社の社長だから…つまり…。
 僕の知らない人が、彰人の息子だと公表されているって事?
「これってどう言う事だよ?息子は一人だけで、しかもそいつは葵じゃないって言うんだよ。」
 雪之丞の言葉が何だか遠くの方で聞こえて…地面に足が付いて居ないような感覚に襲われる。
 僕が安全で居られるように、わざと公表しなかった?
 彰人は僕の事をちゃんと考えてくれている?
 それは、僕が勝手に思っていた事だ。
 彰人に理由を、一度だって訊かなかったもの。
 頭の中に彰人の顔が浮かぶと、僕は居ても立っても居られなくなってしまう。

「ごめん、雪…今日は遊べない、」
 今直ぐ彰人に会いたい。
 会って、そして問い詰めたい。
 僕は…彰人の息子として認めて貰っていないのか。
 僕は、彰人にとってどんな存在なのか。

 血の繋がりが有っても彰人に認めて貰えなければ、それは無いのと同じだ。
 それさえ無くなってしまったら、もう僕には………素敵な物は何も無い。



 タクシーを捕まえて、急いで僕は彰人の会社へと向かった。
 何も言わずに一人で来るのなんて、子供の時のたった一度きり以来だ。
 きっと、怒られるかも知れない。勝手な事しちゃって、忙しい彰人の邪魔にはなりたくないのに。
 それでも僕は…彼の口から真実を聞きたいのだ。
 けれど彼の口から、僕は息子として失格だ、と言われたら?
 その彰宏って人の方が、僕よりも大切なんだと言われたら?
 どうしよう…。
 今になって、彰人の所へ向かう事を躊躇ってしまう。
 どうしようかとグルグル考えて悩んでいる間に、タクシーは目的地へと着いてしまった。
 引き返すなら遅く無いのに、結局僕は料金を払って車から下り、目の前の大きなビルへと入って行った。
 初めて来た人は社内のあまりの広さに驚くだろう。でも僕は慣れっ子なので、どうって事無い。
 子供らしくきょろきょろと周囲を見回すなんて見っとも無い事はしないし、騒ぐ事だってしない。
 此処に来る時は秘書の坂井がいつも一緒だったから、彼の後を着いて行けば良かったけれど…今日は、一人だ。
 どうすれば良いのか迷いながらも、一般社員は使う事を許されていない専用のエレベータの方へと向かおうとした。
 坂井が案内してくれる時は、いつもこのエレベータに乗って、社長室へと向かう。

「失礼ですが、どう云ったご用件でしょうか、」
 勝手に進みだした僕へと、低く冷たい言葉が掛けられる。
 そしてこれ以上は進ませまいとするかのように、黒スーツの男が僕の目の前へと立ち塞がる。
 雰囲気からして、強そうで…何処となく一般人離れしているようだ。
 彰人と同じくらい長身のその男は、僕を冷たく見下ろしていた。
 長身で黒スーツって、何だか映画に出て来るような殺し屋みたいで…怖い。
「あ、あの…坂井さんに呼ばれて来たのですが…」
 咄嗟に嘘を吐いて見るけれど、男は眉一つ寄せずに、僕を冷たく見下ろしている。
 何だかこの場から直ぐにでも逃げてしまいたい。

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