Forget me not…09
だって、僕はこの人の事を知らないもの。
一瞬、聞き間違いかと思ったけれど、その人は速足で僕の方へと近付いて来る。
ど、どうしよう…逃げるべき?
でも此処で逃げたら逆に怪しまれちゃうだろうし、僕は逃げるような悪い事なんてしていないし。
そうこう考えている内に、相手は僕の目の前へと来てしまった。
恐る恐る顔を良く見ると…美形、って言うに相応しい程、綺麗な男の人だった。
綺麗なのに全然女の人っぽく無いし、吸い込まれそうな雰囲気を纏っている。
そう…何て言うか、彰人の息子だと呼ぶのにピッタリって言うか…外見や雰囲気が、そんなカンジだ。
「やっぱり葵だ。俺の事分かる?」
少しだけ低くて綺麗な声で話し掛けられた上に、整った顔立ちで
にっこりと微笑まれ、僕はつい相手に少しだけ見惚れてしまう。
でも僕はこんな人は知らないし、見た事も無い。
思わず首を軽く傾げながら、「誰…?」と尋ねる僕を見て、彼は可笑しそうに笑い出した。
「ごめんごめん、俺は彰宏。彰人さんの息子だよ」
「はっ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭の中がぐちゃぐちゃして、上手く考えが纏らない。
息子?彰人の?
って、今…彰宏って名乗った…?
じゃあ……この人が…。
「俺は葵より歳上だけど、呼び捨てで良いよ。あ、何なら…お兄ちゃんでも良いし」
驚きで相手を見ている僕なんかお構いなしに話を進められ、更に頭の中がぐちゃぐちゃする。
ニコニコと機嫌良さそうに笑っているその顔は、何だか彰人の面影が有るし…
いや、彰人はにっこりと笑う事なんて無いけど。
確かに、この人は彰人に似ている。
僕は…色んな人に可愛いとか言って貰えるけれど、この人みたいに綺麗では無いと思うし。
それに僕は、彰人に似ても居ない。
それに比べたら、この人は彰人に何処か似ているから…。
「こんな所で葵に会えるなんて嬉しいなぁ。彰人さんに会いに来たのか?」
憎めないような笑顔を浮かべられて、親しげに話し掛けられて…
悪い人じゃないのに、何だか僕はとてもこの人が好きになれそうに無くて。
きっと、嫉妬だ。
そう自覚すると、自分がとてつもなく汚い人間に思えて仕方が無い。
僕はどうしようも無い程、心が荒んでいるみたいだ。
嫉妬するなんて、子供みたいで嫌なのに…。
急に沈んだ面持ちになった僕を見て、彰宏は不思議そうに首を傾げて見せた。
どうかしたのか、と心配そうに尋ねられても、僕は首を力無く振るだけだ。
彼は優しいし、悪い所なんて見る限り何も無くて…
まるで欠陥だらけの僕の方が、存在自体が間違っているように感じられた。
「彰人さんに慰めて貰いに行く?彰人さん、すっごく優しいしな」
「え……、」
慰めて貰いに?優しい?………誰が?
思わず相手をまじまじと眺めてしまい、信じられないと云った表情を浮かべる。
慰めて貰いにって事は…彼は、彰人に慰めて貰ったりしているのだろうか。
優しい言葉を掛けて貰ったりしているのだろうか。
そう考えると、胸がズキリと痛む。
彰人は僕が会社に来ると、決まって冷たい言葉を返して来るけど…彼が行ったら、優しい言葉を返されるのだろうか。
……彰人にとっての僕って、何なんだろう。
もう何もかもが分からなくて、恋人同士なんて言葉すら消えそうで…
「父さんは…どんな時に、どんな優しい言葉を掛けてくれるの?」
耳にした自分の声が震えていて、何だか今にも泣きそうな声に聴こえた。
僕の知らない優しい彰人。
それを知った所で、僕はどうするんだろう。
「え、そ…そうだなぁ…例えば、任された仕事をこなした時なんかは、頭を撫でながら褒めてくれるかな」
何故か少し口篭る彼の言葉を聴いて、一瞬で目の前が真っ暗になる。
彰人が人の頭を撫でるなんて…しかも僕以外の人の頭を撫でたなんて、聴きたくなかった。
「そう…、」
それって、本当に親子みたいだ。
いい子を褒める父親みたいで、何だか僕は必要とされていないように思えて来る。
僕はもう一度じっくりと相手を眺め、心の中で苦笑した。
彰人と並んでも、釣り合っている。
自分の子供だと、彰人が自信を持って言える人だ。
それに比べて…僕はやっぱり、彰人の子供としては不適格なんだ。
そう考えると、今まで溜め込んでいた不安が爆発したように涙が零れた。
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