Forget me not…10

 人前でなんか泣きたく無いのに。
 泣いてしまったら、僕はしっかりした人間になれないのに。
 そうなったら、彰人がもっと遠くなってしまう。

 泣いている事を隠すようにして、顔を両手で覆うと、彰人の姿が暗闇に浮かんだ。
 僕に広い背を向けたままで、決して振り返ってはくれない。
 それが、本人から聞いた訳でも無いのに…答えみたいで。
 彰人の子供としては、失格で…恋人としても釣り合ってなくて………僕はもう、不要物なんだ。
 だって僕は欠陥だらけで、もう何一つ、素敵な物を――――――持って、いないから。

「あ、葵…?」
 慌てたように僕の名前を呼んで来る彰宏が憎くて憎くて…
 でも、そんな風に汚い感情を抱いてしまう自分が、一番憎くて嫌いだ。
 自分の泣き顔なんて、弱い所なんて見られたくないのに
 彰宏は僕の腕を掴んで、顔を隠している手を退けようとして来る。
 もうこれ以上、僕を惨めにさせないで欲しい。
「ゃだ…、やだ、触ん…ないで…ッ!ふ…え、は、離して」
「葵…」
 片腕を掴まれて離されて、慌てて僕は顔を背ける。
 残る片腕で目を擦っても擦っても、後から涙は零れて来て…誰にも見られたくないのに。

 お願いだから見ないで。
 誰も見ないで。
 こんな、汚い感情を抱いて流れた涙なんて…誰にも見られたくない。
 お願いだから――――。
 そう強く願った瞬間、頭に何かが被された。
 驚いて腕をそっと退けて見ると、視界は真っ暗で…。

「彰宏、葵に何をしていた?」
 恐ろしく冷たい声が耳に入って来た。
 坂井が以前出していた冷たい声なんて、まるで赤ん坊みたいで――――足が震えるぐらいに、
 言葉に詰まるぐらいに低くて鋭い…そんな冷たい声だ。
「あ、えっと、お、お…俺は別に何も」
 彰宏の声が震えてて、多分、かなり鋭い眼力で睨まれているんだろうと察した。
 僕の頭に被されているものがスーツの上着だと言う事にやっと気付くと、
 上着から少しだけ香るコロンの良い匂いに、涙が止まらなくなる。
「彰…人…っ」
 小さく名前を呼んで、傍に居る彰人の服を縋るように掴んだ。
 僕は何て、格好悪いんだろう。
 でもそんな事も気にしていられないぐらいに苦しくて、黙り込んだまま彰人の服を掴み続ける。
 俯いているから、彰人がどんな表情を浮かべているのか分からないけれど…
 視線を感じたから、彼は少しの間僕を見てくれたのだと理解出来た。
「彰宏…早く行きなさい。お前は仕事が有るだろう?」
 相手に発言を許さないような、冷たい怒りを含んだような声色で、彰人はそう言った。
 優しい口調なんて、程遠いものだ。
 彰宏が、彰人は優しいって言っていたのに…あれは嘘だったのかな?
 彰宏だけには優しいと言う事を思い出すと、胸がズキリと痛んだ。
 ……嫌だ。彰人は、僕だけの彰人で居て欲しいのに。
 そう思うと、更に強く彰人の服を掴んでしまう。
 まるで子供みたいだと考えて、自嘲気味な笑みが零れそうになる。
 けれど零れるのは、涙だけで―――。
 声を殺して泣いていると、彰宏の物と思われる足音が、慌てたように遠くへ向かって行く。
 その事に一人で安堵していると、急に身体は浮遊感に襲われた。
 彰人に抱え上げられたのだと云う事に直ぐ様気付くけれど、今の僕には抵抗なんて出来無い。
 出来るのは、ただ、子供みたいに泣きじゃくるだけ。
 彰人の肩に担がれて彼の上着で顔を隠し、ただ泣き続けた。
 嬉しいのと、切ないのと不安なのがぐちゃぐちゃに混ざって、涙は益々止まらない。
 それでも喜びの方がとても強くて、彰宏を遠ざけてくれて僕を肩に担いでくれて、
 上着を被せて僕の涙を見せないようにしてくれて…それが、とても嬉しくて。
 僕は…僕の知らない優しい彰人よりも、こんな風に僕しか知らない優しい彰人が好きだ。

 彼がこんな事をしてくれるのは、きっと僕だけなんだと……
 今だけは―――――そう、思いたい。



「葵…大丈夫か?」
 社長室に着いて広いソファの上に下ろされ、先程彰宏に
 冷たい言葉を放った者とは思えない程に、彰人は優しい言葉を掛けてくれる。
 上着をそっと取られて、慌てて僕は両手で顔を覆い隠した。
 こんな情けなくて弱い姿を、彰人には一番見られたくないから。
 けれど彰人はそれを許してはくれず、僕の手首を掴んで、顔を隠すのを止めさせた。
 情けない…とか、思われるだろうかとビクビクしていると、
 彼は何も言わずに僕の瞼へと優しいキスをしてくれる。

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