Forget me not…16
それから二人は二言ぐらい何か話して、やがて扉が閉まる音が響いた。
人が居なくなったのだと理解すると、そっと目を開ける。
一人で家に帰って…それから、どうしよう。
家出の準備でもしようか?彰人に捨てられる前に、自分から逃げてしまおうか?
一人で考えていると、近付いて来る足音に気付く。
彰宏かと思うと、体は震えて手に汗が滲んだ。
もう、何も言わないで欲しい。
もうこれ以上傷付きたく無いし、彰人を疑いたくも無い。
「葵君、体調でも優れませんか?」
優しい声が布一枚隔てた向こう側から聞こえて、耳を塞いでいた手を離し、顔をそっと上げる。
上着を頭から被っている所為で姿は見えないけれど、それが誰だか理解出来た。
「坂井…彰宏の事、知ってるの?」
もう自分の声は震えて居なくて、何でか涙も出ない。
まるで空っぽにでもなったようで、僕はそっと上着を取った。
「え、えぇ…まあ、一応社長のお子さんですからね」
「彰人は…彰宏と付き合ってるのかな?」
「はっ?」
坂井のその端整な顔が一瞬で、間抜けな程驚いた表情に変わる。
それから直ぐに真剣な表情を浮かべて、何か考えているように目線を逸らした。
「僕はね、一人で勝手に勘違いしてたんだ。彰宏の言う通り、僕の知っている彰人が全てだと思ってたんだ…」
自嘲的な笑みを浮かべながら語る僕は、坂井の目にどう映ったんだろう。
彰人に認められている彰宏の顔が頭に浮かんで、笑いを止めて、僕はそっと目を伏せた。
やっぱり僕じゃ、彰人を満足させてあげられなかったんだ。
一人で勝手に舞い上がってた自分が限りなく愚かに思えて、涙が零れた。
カッコ悪いとか、見っとも無いとか、情けないとか…
そんな感情を抱いていた自分ですら馬鹿らしくて。
結局僕は、何がしたかったのか分からなくて、声を殺して泣き続けた。
いつから…僕は声を殺して泣くようになったんだろう?
まるで走馬灯のように、昔の記憶が頭の中で駆け巡って…
彰人の姿が次々に浮かぶものだから、こんな時でも彼に夢中な自分が馬鹿らしい。
「あ、葵君?どうしました?」
急に泣き出した僕へと、更に坂井が近付いて来る。
床に膝をついて、心配そうに僕を見上げて来るものだから…僕はつい、坂井に抱き付いてしまった。
「な…っ、あ…葵君っ」
「お願い…」
慌てて僕を引き離そうとする坂井に、ぽつりと言葉を漏らした。
僕の言葉を聞いてから離そうと考えたのか、坂井の動きが止まる。
「少しだけ、お願い…」
声を殺して泣きながら、今にも消え入りそうな声でねだった。
もし、坂井を好きで居たなら、楽だったろうか?
こんなにも苦しくなる事も、淋しくなる事も無かっただろうか?
坂井の首に腕を回してしがみついていると、彼の喉元がゴクリと鳴る。
僕に欲情してくれてるんだと理解したけれど、逃げる気力も起きない。
どうだって良いや、なんて自棄になる自分に気付くと、苦笑が漏れた。
自分を追い詰めてばかりで、女々しくて、うじうじしてて…いつまで経っても、この性格は直らないしで。
ほんと、駄目だな…僕は。
坂井に抱き付いて、寂しさが少しでも薄れるかと思ったけれど…
余計に彰人の温もりを思い出してしまって、どうしようも無い。
彰人が恋しくて恋しくて…そんな自分が更に情けなく感じる。
「葵君、あの…社長は彰宏君と付き合っている事など、無いと思いますが…」
静寂な室内に坂井の声が響いて、僕は小さく首を横に振った。
恋人じゃなくたって、抱き合ってる関係なんだ。
そう思って、下唇を噛み締めた。
「葵君の事となると、社長は人が変わったようになりますし…
彰宏君と葵君では、扱いがあまりにも違うように思われますが…」
「扱い…?」
「えぇ、私から見ても、明らかに葵君の方に愛情が注がれて居ますよ。まあ、当然でしょうけど…」
何が当然なのか分からないけれど…彰人の扱いが違う?
僕の方に愛情が注がれている?
それは…本当なのだろうか。
坂井は僕の事を好きな筈なのに、彰人に対する疑いを晴らしてくれる。
どうして坂井は、こんなにも優しくて心が綺麗なんだろう。
そう思った瞬間、急激に体温が上昇して、鼓動が速まる。
軽く息も切れて…何だかムラムラして、変な気分だ。
「坂井…、」
自分の声がまるで誘うように甘く掠れてしまい、それを聞いた坂井がゴクリと喉を鳴らす。
ど、どうしちゃったんだろう…僕の身体。
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