Forget me not…21

 机の上に置かれた、まだ使われていないタオルを掴んで、乱暴に拭う。
 それでも後から溢れて来るから、指を入れて掻き出して……
 不意に、幼い頃に死んでしまったお母さんの事を考えた。
 彰人に捨てられたら、生きていけない。
 居場所だって無い。

 ―――――死ぬ前に、お母さんのお墓に行きたい。
 僕は本当に、親不孝者だから。
 お母さんが死んでも、その場で泣けなかったような、悪い子だから。
 せめて、謝ってから……。そう考えて、社長室に備え付けてある浴室へと、痛む身体を引きずるようにして向かった。
 やっぱり慣らさずに入れたのは無理があったらしく、飴の効果も切れた今となっては、
 腰は少し痛い程度だけれど、お尻はかなり痛い。
 何だか身体がボロボロみたいで、苦笑が零れる。

 ………本当に、最後だったんだ。



 ついでに汚れたタオルも洗ってから浴室を出て、服装を整えた僕は、
 床に落ちた彰人の上着をそっと拾い上げた。
 捨てられた、と分かっていても、どうしても好きで仕方ない。
 彼の上着を抱き締めて、下唇を噛み締めた。
 上着を椅子の背凭れに掛けて、机の上に有るメモ用紙とボールペンを手にした。

 ―――――お世話になりました。
 なんて言葉は、何だか変だなぁ…と苦笑しながら、その言葉を書き込む。
 それから、自分の携帯をメモ用紙の上に置いて、一度室内を見回してから、
 ボロボロな身体を引き摺るようにして部屋を後にした。



「おや…葵君、お帰りですか?」
 部屋を出てから廊下を暫く歩くと、坂井とバッタリ出会った。
 丁度良い。
 この先はセキュリティゲートが有る上に、僕一人ではセキュリティ万全のエレベータにも乗れないからだ。
「丁度良かった、坂井。忙しいのは分かるんだけど…下まで、連れて行ってくれないかな?」
「構いませんよ。何なら、ご自宅までお送りしますが…」
「ううん、一人で帰りたい気分なんだ」
 今の心境で良く作れるなってぐらいに、明るい口調と、にっこりとした微笑を浮かべて見せた。
 坂井は簡単に騙されてくれるけど、彰人は、きっと騙されてくれないだろうな。
 僕の作り笑顔を見破れるのは、世界中で彰人だけだったのに。
 それがとてもとても、僕には嬉しかったのに。
「社長には先にお帰りになる事を、きちんと告げて居られるのですか?」
「うん。…彰人は仕事が忙しいもの。迷惑掛けちゃ駄目だと思って、先に帰る事にしたんだ」
「葵君、もっと我儘になっても良いのでは?」
「彰人にも良く言われるよ、」
 明るい笑い声が、本当に自分が出しているものなのか分からなくなる。
 そんな会話をしながら、何事も無かったかのように明るく振舞って……
 何だか、それがとても悲しい。
「あ、下に着けるようにしてくれれば、後は一人で帰れるから」
 下まで送ると言ってくれる坂井を何とか断って、僕は一人でエレベータに乗せて貰った。
 気を付けて帰るようにと、何度も念を押され、やっと解放されてから坂井をじっと見つめる。
「坂井、じゃあ…さよなら」
「はい?」
 僕がそう声を掛けた瞬間、エレベータの扉は音も立てずに閉まり、動き出す。
 坂井には、本当にお世話になった。
 彰人に会いたいって言う我儘を、何度か聞いて貰ったりもしたし。
 一言じゃ済ませられないぐらいに、彼には感謝しているのだ。
 なるべく彰人の事を考えないように努めてから、ふと財布の中身を確認する。
 僕の記憶が正しければ、お母さんと一緒に住んでいた街へは、電車でそう遠くない筈だ。
 交通費がちゃんと有るかどうか確認していると、階への到着を告げる音が響いた。
 扉が開くと、財布をしまってから少しフラ付く足取りで、エレベータから出る。
 それから、珍しそうに僕を見ている社員の目を避けるように、少し急ぎ足でビルを後にした。
 財布に入っているお金は足りそうだから、一度家に戻る必要も無い。
 そう考えると、長年彰人と暮らした家の中を思い描き、想い出が走馬灯のように駆け巡る。
 幼い頃は、本当に楽しかった。
 いつだって彰人が傍に居てくれたもの。
 本当に、本当に楽しかった。
 一度高いビルを見上げてから、夕方だと言うのにもう暗くなった道を、一人きりで歩き出した。



 一人で電車に乗ったのは、久し振りかも知れない。
 夜だと言うのに混んで居なくて、車両はガラガラだった。
 友人の雪之丞が言うには、夕方から夜に掛けての時間と朝の電車内は地獄だとか。

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