Forget me not…22

 痴漢は続出するわ、押し潰されそうになるわで最悪だと、苦虫を噛み潰したような表情で彼は語っていたっけ。
 ふと自分の腕時計を見て、小さな溜め息を漏らす。
 彰人の会社を出てから、2時間ぐらいは経ったみたいだ。
 ……もう彰人は、とっくに社長室に戻っただろう。
 机の上に残したメモを見て、納得してくれただろうか。
 捨てられたんだと分かっていても、彰人は僕を捜しに来てくれそうで……
 でもそんな淡い期待を抱いてしまっている自分に、嫌気が刺す。
 そんな事は、もう…有り得ないんだ。
 今度はあの家に彰宏を住まわせて、そして…彰人は彰宏と仲良く暮らすんだろうな。
 お似合いの親子で、釣り合っている恋人同士だ。
 流れる夜の景色を車窓から眺めて、車内の揺れに目を閉じた。
 お母さんがまだ生きていた頃、二人で電車に乗ったのを思い出す。
 喘息持ちの僕を、いつも迷惑そうに見ていて、決して優しいとは言えなかった母だけど。
 車窓から見える景色を指差しては、僕に優しい微笑を見せてくれたっけ。
 そんな事を考えていると、車内アナウンスが次の駅を知らせた。……自分が、降りる駅だ。
 お母さんのお墓は、何処に有るんだろう。
 幼い頃に一緒に暮らした家は、まだ有るのだろうか。
 あまり良く考えずに来てしまった事を、今更後悔した。
 そんな事にも構わずに電車は駅へと停まり、ドアが音を立てて開いたから、
 少し躊躇いながらも電車から降りて、周囲を見回した。
 殺風景で、少し薄汚れていて…見覚えがある。
 昔と全く変わっていない懐かしい光景に、少しだけ心が軽くなった。
 冷え込んだ空気の中で小さく溜め息を漏らして、駅を出る。
 記憶を頼りにして、昔お母さんと住んでいた家へ向かおうと試みたけれど、
 駅は変わらずとも道や建物はいくつか変わっているみたいで、進めなくなる。
 人がまばらで、更に外は暗いから、余計に見覚えの無い景色に思えて来る。
 確か小さな道が有った筈なのに、其処には新しい建物が出来ていて…
 何だか、知らない街に来たみたいで急に不安になった。
 僕はもう、小さな子供じゃないのに。
 高校生なんだから、こんな事で不安がってちゃ駄目だと自分に活を入れて、交番を探そうと目的を変えた。
 結局は人に頼らないと、何も出来無いのだ。
 でも、分からないままで町を彷徨うのは無謀だから、これが一番良い方法なのかも知れない。
 通行人の、なるべく優しそうな女の人に尋ねて見ると、顔をじろじろと伺われる。
 何となく理由は分かっているけれど、良い気はしない。

 …………早い話が、珍しいのだ。
 この都会から少し外れた町を僕みたいな、人より少し顔立ちが良い者が歩いていると言う事が。
 雪之丞が歩いたなら、それはもう大騒動モノかも知れない。
 交番まで連れて行ってくれると言う申し出を丁寧に断り、女性へお礼を言ってから一人で交番へと向かう。
 暫く歩くと、暗闇の中にひっそりと灯りを漏らしている小さな交番を見つけた。
 けれど建物の中に警官の姿は無くて、それどころか中を覗けば、机の上に電話機が一つだけ置かれているだけで。
「ご用の方は、この電話を…お使い下さい…?」
 これは確か無人交番とか言うやつだったような…なんて、ぼんやり考えてしまう。
 道を訊く為だけに電話をするのも何だか申し訳ない気がするし。
 何だか全然スムーズに目的地へ辿り着けなくて、溜め息が零れる。
 でも何かをしていないと、彰人の事を考えて泣いてしまいそうだから、直ぐにその場を離れた。
 それから暫く、駅の周辺を歩き回って…24時間営業と書かれた看板を目にして、
 最近出来たばかりだと思われる綺麗な店の中へと足を踏み入れた。
 街灯の明かりもまばらな暗い町中で、昔の記憶を頼りにして進むのは無謀過ぎるし、探すなら明るい方が良い。
 何だか、家出少年になった気分を味わいながら、初めて入るネットカフェに色々と驚かされる。
 しきりで中が見えないような席がいくつも並んでいて、閉鎖的な空間に感心したりもした。
 椅子に座って、パソコンにふと目をやると……それに刻まれていた会社名に、身体が強張る。

 ―――――彰人の会社だ。
 考えて見れば、身の回りの家電製品はほとんど、彰人の会社が作っているんだ。
 有名大企業の社長である彰人は、もう親子でも恋人でも無くなった今では本当に遠い存在で―――――
 街中でバッタリ会えるような、そんな存在じゃないんだ。

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