Forget me not…23
もう本当に、彰人の傍には居られないんだ。
そう考えると涙が零れて、脱いだコートへと慌てて顔を押し付けて、声を殺しながら少しだけ泣いた。
出来るなら、死ぬまで彰人の傍に居たかった。
彰人と別れる日が来るなんて、思わなかった。
彰人が傍に居ないなら僕はもう…
―――――――生きていけないよ。
朝になると外に出て、昨日と比べると全然明るい町を見回す。
昨日来た時は夜だったから仕方ないけれど、朝と夜ではこうも違うのかと、驚いた。
時間が時間なだけに外は冷え込んでいて、コートを羽織っているにも関わらず、
少し肌寒さを感じながら眠い目を擦って歩き出した。
慣れない一人での遠出に身体は疲れ果てていたけれど、僕は結局、あまり眠れないままで朝を迎えたのだ。
だから、寝不足と言っても良いくらいに眠かった。
昨日の暗かった景色に比べると、明るい景色の中では、いくつか見慣れた建物や道が見つかった。
記憶に沿って道を進むごとに、段々と周囲は昔の景色と変わらないものになってゆく。
次第に歩く速度は速まって、ついに走り出してしまう。
病弱だった頃は一人で昇るのも辛かった坂道を、流石に息は切れるけれど、今では急いで駆け上がれる。
坂道を昇ると、周りには他に何も無い中で、ぽつんと建っている一軒家を目にして、胸が高鳴った。
ちっちゃい頃に母と暮らした、あの家だ。
玄関ドアをノックしようと急ぐけれど、ドアの前で急に我に返って立ち止まる。
お母さんはもう、此処に住んで居ない。
そう考えると、急に泣き喚いてしまいたくなった。
母親が死んだのは、もう何年も前だ。今更悲しむなんて、どうかしてる。
家を訪ねても僕の家族は居ないから、早く母の墓参りを済ませてしまおう。
少し歩いた先に小さな墓地が有った筈だから、きっと母はそこで眠っているのだと考えた。
踵を返して、玄関ドアに背を向けた瞬間、ドアが開く音が聞こえた。
思わず振り向くと、疲れきったような表情を浮かべている男と目が合う。
この家に、住んでいるのだろうか?
何処かで見た事が有る男を、つい暫くの間見つめてしまう。
僕より身長は高くて力も有りそうで、けれど顔にはあまり生気が感じられない。
「何か用か?」
低い声でふてぶてしく尋ねられ、慌てて首を横に振った。
此処はもう、僕の家でも無いのだ。
きっと、この人の家なんだ。
それに相手からすれば、見知らぬ人物が自分の家を見ている事になるし、あまり良い気分じゃない筈だ。
「い、いえ…ごめんなさい、ちょっと通りがかっただけなんです…」
咄嗟に嘘を吐いて、逃げるように急ぎ足でその場から離れようとした時だった。
男の力強い手が、僕の手首を急に掴んで、強い力で引き寄せられる。
「もしかして、葵か?そうだろう?」
名前を呼ばれて、やっとこの人が誰なのか理解出来た。
母が亡くなる数ヶ月前に、一緒になった人だ。
この人はとても恐くて、僕は幼い頃いつも怯えていたのを覚えている。
喘息の発作や妙に大人びて物静かな態度とか、兎に角僕の何もかもが苛つくらしく、彼は良く僕をぶっていた。
もう関わり合いになりたくないのに、僕は無意識の内に頷いてしまう。
昔と比べると、何だかこの人は穏やかになった気がする。
「一体どうしたんだ、えぇ?こんな所まで来るなんてな…元気にしてたのか?そうだ、上がって行け」
グイグイと腕を引っ張られて、僕はされるがままに家の中へと入って行った。
歳月は人を変えるって言葉を聞いた事が有るけれど、本当にその通りだと納得出来る。
家に上げて貰ってお茶まで出して貰って、優しい声で、
病気や怪我はしなかったか?なんて訊かれるものだから、何だか涙が出そうになる。
「あの…お母さんのお墓参りに、行きたいんですけど…」
「そうか、それで此処に来たのか。あいつも、きっと天国で喜ぶぞ」
嬉しそうに語りながら、男は腰を上げて来るものだから、僕は慌ててそれを制止した。
「一人で行きたいんです。…場所を、教えて貰えませんか?」
目を伏せて、畳を見つめながら告げる僕に、暫くの沈黙が降りかかる。
痺れを切らして目線を上げると、男とバッチリ目が合った。
何だか、ずっと僕を見ていたみたいで、少し嫌な予感がする。
けれど彼はゆっくりと頷いて、少し先に有る墓地で眠っていると、遅れながらも素直に教えてくれた。
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