Forget me not…29
けれど一向に彰人は姿を見せる気配が無く、僕は不思議に思いながらも、そっと障子に手を掛けた。
「彰人…」
小さなテーブルを挟んで、椅子が向かい合うようにして窓際に置かれている。
その椅子の一つに、彰人が座っていた。
しかも浴衣姿で…絵になり過ぎるぐらいに、魅力的だ。
「座りなさい。お前に話して置く事が有る…」
一人で彰人のカッコ良さにドキドキしていたけれど、真剣な彼の表情と口調に、嫌な予感がした。
話とは、何だろう……彰宏の事だろうか。
もしかして、彼との付き合いを僕に認めて欲しい…とか言うんじゃないだろうか。
その場から動けずに立ち尽くしていると、彰人が小さな溜め息を漏らした。
それがとても苛ついているように聞こえて、慌てて彼の向かい側の椅子に腰を下ろす。
「葵…彰宏の事だが…」
考えていた通りに彰宏の事を切り出され、彰人から視線を逸らして俯いた。
膝の上に乗せた、自分の両手が震えているのをじっと見つめる。
「あいつとは、血の繋がりは全く無い。」
「え?」
思いも寄らなかった言葉に、思わず顔を上げて彰人を見つめた。
血が繋がっていない?……どう云う、事だろう。
「かと言って、養子でも無い。分かるか?」
分かるか、って訊かれても……全然分からないよ。
ゆっくりと首を横に振ると、彰人は苛立った様子も見せずに頷いた。
「お前の代役みたいなモノだ。あいつが居る限りは、お前に危害が加わる事が無いからな」
それはつまり…前に坂井が言っていた言葉で表すと、彰宏が僕の身代わり?
と言う事は思っていた通り、彰人は僕が安全で居られるようにと、わざと公表しなかったのだろうか。
それ所か、彰宏と言う代役を立てる事で、僕から危険を更に遠ざけてくれたのだろうか。
けれどそれだと、彰宏が何だか可哀想に思えて来て、つい沈んだ表情を浮かべてしまう。
「…心配無い。あいつはプロだ。縄抜けだろうと銃の扱いだろうと、何だってこなせる…
相当腕の立つ殺し屋でも雇わない限り、あいつは傷一つ負わない」
まるで僕の考えが理解出来たように、彰人はそう言ってくれる。
彰宏って…そんなに凄い人だったんだ。
つい感心してしまうけれど、僕は直ぐにハッとした。
息子じゃなかったとしても、彰宏と彰人は恋人同士なんだ。
それに、僕はもう捨てられたんだから…いつまでも彰人の傍に居られない。
「あ、あの…僕、帰らなきゃ…」
「帰る?」
彰人の眉が怪訝そうに顰められて、慌てて僕は自分の口を塞いだ。
帰るって、何を言っているんだろう……もう何処にも、帰る所なんて無いのに。
「…彰宏から聞いたぞ。あいつから、妙な事を吹き込まれたらしいな」
「え…、」
「私があいつを抱いただと?…馬鹿馬鹿しい。」
…え?
彰人、今何て言った?馬鹿馬鹿しい?
って事はもしかして、いつも通りの、僕の勘違い?
でも今回のは勘違いって事で許されるようなモノじゃない気がする。
家出までして………死のうとまで、考えて。
一人で勝手に誤解して、辛くて泣いたのが酷く馬鹿みたいに思えて、何だか気まずい。
怒られるだろうとビクビクしていたけれど、彰人の言葉が一向に聞こえなくて
相手を伺うように、僕はそっと目線を上げた。
「彰人…?」
彰人は目を伏せて、少し悲痛な表情を浮かべていた。
どうしてそんな顔をしているのか分からなくて、何だか胸が痛くなる。
「…お前が、あんな置き手紙を残して消えるとは…思いも寄らなかった」
いつもの彰人らしくない、とても悲しそうな口調で言葉を掛けられて…胸が締め付けられるようだった。
酷く何かを後悔しているようなその表情が痛々しくて、僕は思わず立ち上がって、彰人に近付いた。
「…死のうとしたのか?」
僕を見ずに、彰人は目を伏せたままで尋ねて来る。
悲しげな彼の問いに、僕は今になって初めて、死のうと考えていた事を激しく後悔した。
「ごめ…なさ…」
自分の声が震えているのが分かって、身体が小さく震えた。
「私が要らないと言ったからか、」
力無く頷くと、彰人は溜め息を吐いた。
それが何を意味する溜め息なのか分からなくて、僕は彰人を見れずに俯く。
「…どうして彰宏の言葉を真に受けたんだ?」
質問を変えられて、僕は首を横に振った。
どうして、なんて…十分分かっている。
「彰宏の方が、釣り合ってるから…僕は、彰人の子供としても恋人としても…不適格だもの…」
搾り出すように声を出すと、後はもう抑えが利かなかった。
28 / 30