鳥籠…03
「何でも…無い、」
眉根を寄せて顔を背け、涙を零す青年の姿に、流石の樋口も焦り始めた。
凪の顎を掴み、顔を自分の方に向けさせ、困り果てたように相手を見る。
「凪君……言い過ぎました、すみません。謝りますから、だから…泣かないで下さい、」
桜羅会若頭補佐筆頭で組の勢力も群を抜き、他組織からも一目置かれている樋口ですら、この青年にだけは頭が上がらない。
桜羅会や樋口組に刃向かう者には情けも容赦も無く、激烈な報復行動で
相手組織を壊滅させ、シマを奪うような冷酷な武闘派ヤクザが………
今では、たった一人の青年が泣いていると云う理由だけで、情けないような声を出している。
そんな自分に、樋口は一瞬呆れそうになったが、目の前の青年を泣き止ませる事だけに集中した。
頬を伝う雫を指で拭い、青年の細い身体を抱き締める。
背中を撫でてやると、凪は泣きながら樋口の胸元へ顔を埋めた。
凪の行動に一瞬驚いた樋口だが、相手のそんな行動一つに喜びを感じている自分に気付き、苦笑を浮かべる。
これ程までに他人を好きになったのは初めてだと云うのに、その相手は自分を恨み、嫌悪している。
皮肉な話だと樋口は考え、一人苦笑する。
自分がした事を知れば、更に凪は自分を恨み、嫌悪するだろう。
ふいに頭の中に、此処に閉じ込める前に何度か見た凪の笑顔が浮かぶ。
もうあの笑顔を見る事は無いのだろうと考えながらも、樋口の手は相変わらず優しく、緩やかに凪の背を撫で続ける。
どうせ嫌われているのなら、とことん嫌われて憎まれるのも良いかも知れないと、樋口は時々そんな事を考える。
愛せないのなら、代わりに俺を憎めばいい。
忘れ去られるよりかは憎むべき相手として、その心に強く残された方が、幾らかマシだ。
それで凪が自分を心に残し、ずっと想い続けてくれるのなら……
心に在る感情が、例え憎悪であろうと
それが凪の感情であれば、樋口は受け入れられた。
組長室に呼び出された樋口は、桜羅会会長、津川新一郎の、何処と無く神妙な面持ちを目にして眉を顰めた。
普段温厚な津川は、常に穏やかな表情を浮かべ、柔らかい笑顔を組員達に振り撒いている。
それが今は珍しく、何か悩みを抱えているような、そんな表情を浮かべていた。
「オヤジ、どうしました」
黒い革張りのソファに腰掛けていた樋口は、机を挟んだ真向かいの席で、ソファの背凭れに深く寄り掛かっている津川へと声を掛けた。
すると津川は云い難そうに一度だけ溜め息を吐き、やがて口を開く。
「芳樹、重大な話だ。……ワシャなあ、引退しようと思っている」
急な発言に樋口は片眉を上げ、サングラスの奥の瞳は、様子を伺うように相手を捕らえていた。
「オヤジ…笑えねぇ冗談は止めて下さい、」
苦笑を浮かべながら諫めるような言葉を放つが、津川が度の過ぎる冗談は、
決して云わないような人物で有る事を、樋口は何よりも知っている。
「云っただろう、芳樹、重大な話だと。真面目に聞け、」
「なら、真面目に訊きますが…何故急に、引退なんです?」
「少々無理が祟ってな。ここいらが潮時だと、ワシャ実感したんだ」
「どこぞ悪いんですか?」
諦めたような寂しげな笑みを浮かべる津川を目にし、樋口は声を潜めて問う。
「肺だ。ワシャ引退して、ゆっくり療養したい」
困憊したような溜め息が津川の口から漏れ、樋口は何も言葉を返せずにいた。
オヤジの事だ。肺が少し悪いだけで、引退なんぞ考える訳が無い。
だとすると…病状は思うよりも深刻なのか。
「それで、オヤジ。その事、頭には?」
「まだ康史には云っていない。…なぁ、芳樹」
重大な事だと云うのに、まだ榎本若頭には引退の事を告げていないと云う事が、いささか疑問に思えた。
津川は勿体ぶるように樋口を呼び、誰も居ないと云うのに、一度室内へと、警戒するように視線を走らせる。
「ワシはな、おまえを跡目にしてやりたいと思っている。」
「跡目は、頭が最適でしょう。俺には向いていません」
何の躊躇いも無くあっさりと断る樋口を前にしても、津川は諦めずに、ゆっくりとかぶりを振る。
「康史は駄目だ。あいつは、何を考えているのか分からん。裏のハラが有りそうな上、親を親とも思っておらん。
だが芳樹、おまえなら、この組を安心して任せられる。」
「俺はそんな器じゃ無いですぜ、」
頑なに拒む相手の姿に、津川は一度だけ溜め息を漏らし、煙草を取り出して口に咥えた。
すかさず樋口は懐からジッポを取り出し、慣れたように火を点ける。
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