鳥籠…05
青年に関しての衝撃的な事実を聞かされ、樋口は微かに眉を顰めた。
津川が次に放つ言葉が、何となく予想出来る。
「母親だけじゃなく、今度は父親まで死んだとなると、どうなるのか。……今度は、ちゃっかり死ねるかもなぁ?」
やんわりと脅され、樋口は軽く目を伏せる。
産まれて初めて人を愛した樋口にとって、凪は何よりも大切な存在だ。
ガキのような下らない独占欲を抱く程に、強くあの青年に執着してしまっている。
「いくらお前でも、あのガキを四六時中見張るのは無理だろう?
…お前が跡目を継いでくれれば、ワシャ、一生口を閉ざす気で居るんだがな…」
青年を絶対に失いたくない樋口には、反論の余地など、皆無に等しかった。
薄暗い室内で鼻唄を歌いながら、男は耳に当てていたイヤホンを外し、
自分の周囲を囲むようにして置かれている機械へと視線を走らせる。
「樋口が、凪をね…初耳だ。」
男が何処と無く愉しそうに呟いた途端、部屋のドアが控えめにノックされた。
視線だけをドアに注ぐ男の目に、桜羅会と長い間いがみ合っている、遠山組組長の姿が映った。
「猛、なんぞ面白い事でも有ったんか、」
「ウチの会長が、引退するって云ってたんっすよ」
盗聴受信機と自動録音機を片付けながら、男はいささか得意そうに
口元を歪め、盗聴した津川と樋口の話の内容を、手短に語る。
津川が樋口に跡目を継がせたい事と樋口が了承した事、今度の幹部会で
それを発表する事だけを語り、樋口の弱点とも呼べる凪の件には触れなかった。
「どうなっとるんや。康史が桜羅の三代目になるんとちゃうんか、」
「樋口は会長のお気に入りっすから。それに…貴方も、樋口を欲しがってたじゃないっすか」
「樋口だけやない、桜羅ごと吸収したる。そん為には、康史が三代目にならな、アカン」
桜羅会の若頭、榎本康史は、盃こそ交わしてはいないものの、遠山とは旧友にあたる。
桜羅会を傘下にし、組織勢力の拡大を以前から図っていた遠山にとって、
津川が引退すると云う事実は、願っても居ないチャンスだ。
桜羅会若頭、榎本康史が三代目を継いだ後は、盃を交わして傘下に収めればいい。
遠山に大きな借りがいくつも有る榎本は、傘下になるのを拒む事は無い筈だ。
だが、樋口が三代目になるのなら、話は大きく違って来る。
金にも暴力にも屈しない男、それが樋口組組長、樋口芳樹と云う男だ。
「榎本若頭が三代目になったら、俺、また桜羅に戻れるかもしれないって、期待してたんスけど」
「手打ち金三億を持ち逃げ、やったか?相変わらず、無茶しよるな、猛…」
遠山が低い声で囁き、猛の頬をゆっくりと撫でる。
「俺の親父の借金、返す為っすから。それに…」
頬を撫でている遠山の手を掴み、自分の口元へと移動させると、猛はまるで犬のように相手の指へ舌を這わせた。
「貴方が、絶対俺を匿ってくれる自信が、有った」
「弟しか見えとらん癖に、よう云うの…」
相手を馬鹿にするように鼻で笑うと、遠山は反対の手で猛の髪を乱暴に掴み上げ、手を舐めるのを止めさせる。
「お互い様っすよ。貴方も、榎本若頭しか、見えていない癖に」
髪を掴み上げられる痛みに、多少眉根を寄せるものの、猛は逆らう素振りも見せず。
少し皮肉めいた言葉を吐く猛を見下し、遠山は何かを思いついたように、口元を歪ませた。
「幹部会の前に津川、殺るか。…桜羅の跡目は、必ず康史に継がせたる」
「羨ましいぐらい、熱愛っすね」
「羨ましがらんでも、ええやろ。借金返して、その上、邪魔もんの親父も消えたんやろ?
そんなら、弟と好きなだけやりまくって、ヒイヒイ言わしたれや」
それには樋口が邪魔だと、猛は考えていた。
親父を殺してくれたのは有り難いが、凪の事については話は別だ。
恐らく、嫌がる凪を無理に自分の元に置いているのだろう。
なるべく早めに、愛する弟を樋口の手から救い、その後は弟と二人だけで暮らす。
凪は、絶対俺が、救い出してやる。
自分の使命とも呼べる考えに、猛は酔い痴れていた。
鳥籠のような部屋の中で、凪はソファの上で膝を抱え、樋口の事を想っていた。
あの日…目が覚めた時には既に、父親と兄が家から居なくなっていた、あの日。
部屋の中はあまりにも静かで薄暗く、壁に掛けられていたスーツや服は消え、
寂しく取り残されたハンガーが、更に凪の不安と淋しさを強めた。
―――――誰も居ない。
そう考えて、棚に置かれていた筈の母の遺影までもが消えているのを
目にした瞬間、家の扉を蹴り破って、樋口が侵入して来た。
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