鳥籠…06

 一瞬、安心したような表情を浮かべた樋口が、直ぐに父と兄が何処へ行ったのか尋ねて来なければ……
 きっと自分は我を忘れて、樋口に泣きついていたかも知れない。

 逃げる前に父と兄が話していた内容を思い出すまで、傍に居て貰うと云われた時、
 凪はそんな事は出来無い、と云うつもりだったのだが、それ以上言葉が続かなかった。
 出来るなら、毎日樋口の傍に居たいと思ってしまったからだ。
 樋口に対して不毛な想いを抱き、そんな浅ましい考えを持ってしまう自分に、何度嫌悪したか分からない。
 父と兄の会話を、一生思い出せなければいいとさえ思ってしまう自分が、女々しく思えた。

 兄が見つかれば…自分はもう、用無しになる。
 そして、その後はきっと…自分以外の誰かを、樋口は抱くのだろう。
 どう足掻こうとも、樋口の心に自分は残らないのだ。
 弟に似ていただけの人間としか、彼の記憶には残らないだろう。

 だって、結局僕は……樋口さんにとって、欲求の捌け口でしか、無いんだから。
 そう考えた凪は、膝頭に顔を埋める。
 昼間、樋口が云った言葉が、頭の中に浮かんだ。

「気持ち好ければ、誰が相手でも、いい…」
 言葉に出してみると、無性に悲しくて、泣きたくなった。
 樋口を好きになってから苦痛ばかり感じている凪は、胸の痛みに眉を寄せる。
 人を好きになった事は、今までほんの数回だけ有ったが、こんなに苦痛になる感情は知らない。
 他人に一方的な恋愛感情を抱き続けると云う事が、どれ程苦痛なのか。
 樋口を好きになって、凪は初めて、出来れば知りたくはなかった苦痛を知った。
 樋口の居ない一人きりの空間が、どれだけ淋しいのかも知ってしまい、凪は自分が弱くなったとしか、思えずにいる。
 静か過ぎる空間に、無性に泣き出したくなった凪は、遠くの方から近付いて来る足音を耳にした。
 あの細い廊下を通って、こちらへ近付いて来る人は……自分の最愛の人なのだろう。
 泣きそうになる事だけは何とか抑えられたが、目は少し潤んでしまっていた。

「凪君…どうされました?」
 低く通る声で呼びかけられても、凪は顔を上げられずにいた。
 何でも無いと云うように微かにかぶりを振るが、樋口はそれを目にして眉を顰める。
「ナギ、」
 近くで珍しく名前を呼び捨てにされ、驚いた凪は恐る恐ると云ったように、ゆっくりと顔を上げる。
 床に膝をつき、何処と無く困ったように自分を見上げている樋口が、視界に入った。
「一体、どうしたって云うんです?……泣いていらしたのですか、」
 無骨な手が凪の頬に当てられ、心配そうな樋口の声が響く。
 親指の腹で目元をゆっくりとなぞられ、樋口の優しいその行動に、胸が熱くなる。
「淋しくて…」
 素直な言葉を漏らした凪に、樋口は驚いたように目を見開く。
 自分が居なくて、淋しさを感じてくれたのかと考えるが、直ぐに愚かなその考えを消した。

 父親と兄が逃げ、目覚めた時、凪は一人ぼっちだったのだ。
 きっとその時の事を思い出して、淋しくなったのだろう。

 そう考えて一人で納得し、樋口は少し申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「すみません、オヤジに呼び出されましてね、」
「お父さん?」
「…いいえ、親分の事ですよ」
 何も知らなさそうな凪の質問に、笑いながら答える。
 無知な自分を恥じたのか、それとも笑われたのが恥ずかしかったのか、凪は顔を赤らめ、軽く俯いてしまう。
 凪の恥らう姿があまりにも魅力的に見え、樋口は一瞬我を忘れそうになった。

「凪君、顔が赤いですね…、」
 揶揄するような言葉を放つと、凪は更に恥ずかしそうに視線を逸らしてしまう。
 どうしてそんなにも魅力的なんだと、樋口はいささか困り果てていた。
 そんな態度を取られたら、抑えが利かなくなる。

「ひ、樋口さん…あの、父さんと兄さんは、まだ…?」
 別の話題に変えようと、凪が言葉を放つ。
 普段は自分の方を見ようとしないのに、何故か今はじっとこちらを見つめている。
 凪の質問ではなく、その事に多少動揺した樋口だったが、態度には表さず、平静を装っていた。
「ええ、まだ見つかりません。何処に隠れてやがるんですかね、」
「…ごめんなさい、」
 唐突に謝罪され、訝る樋口を申し訳無さそうに見つめながら、凪は言葉を続ける。
「直ぐに、思い出せなくて…」
 沈んでいるような凪の声を耳にして、樋口は柔らかく微笑んで見せた。
 相手を安心させるような、そんな笑みだ。
「気に病む事は有りませんよ、俺は気が長い方ですから」
 確かに、早く思い出せと樋口が急かした事は、今まで一度も無かった。

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