鳥籠…07
優しい樋口の言葉に凪の動悸は速まり、胸が熱くなる。
樋口からして見れば、思い出さない方が良いと云う事に凪は全く気付かず、
久し振りに、ほんの少しだが、凪は口元を緩めた。
「樋口さん…ありがとう、」
自分を責めたりせず、優しい言葉を掛けてくれた事に対し、凪は心から感謝の言葉を漏らす。
久し振りにほんの少しだけの微笑みを見れた上、お礼まで云われた樋口は、一瞬だけ何も考えられなくなってしまう。
何か言葉を返そうとするが、上手く動かない舌に焦れ、心中で舌打ちを零す。
「何だか、面と向かって礼を云われると、照れますね」
「え…、樋口さんでも、照れたりするんだ…」
驚きの表情を浮かべながら、少し意外そうに呟かれ、樋口は苦笑を浮かべながらサングラスを外した。
「どう云う意味ですか?凪君…、」
クスクス笑いながら顔を近付け、凪の額へと軽く自分の額を当てながら、低い声で囁く。
そんな魅力的な仕種に、凪の鼓動は更に速まった。
「あ、ご…ごめんなさい、」
「別に怒ってはいませんよ。……久し振りですね、凪君とこんなに多く会話を交わしたのは、」
惜しむようにゆっくりと凪から顔を離し、樋口は何処となく幸せそうに笑った。
樋口のその表情は以前、死んだ弟に凪がソックリで、だからこそ
可愛がってやりたくなると告げた時の表情と同じものだ。
「……樋口さんは今でも、僕が弟さんみたいだと…思う?」
震えた声でつい凪はそんな事を尋ねてしまい、自分の発言を直ぐに後悔した。
樋口の答えは、聞かずとも分かる事だからだ。
弟と聞いて、樋口は一瞬訝るように眉を寄せるが、直ぐに自分がそう発言していた事を思い出す。
あれは凪に会う為の口実だし、しかも自分に弟など居ない。
先程から何処と無く漂う甘い雰囲気の所為で、樋口は空言で有る事と、
凪を好きだと云う想いも同時に告げてしまおうかと一瞬考える。
だが、脳裏に津川の顔が浮かび、そんな気持ちは直ぐに掻き消えてしまった。
桜羅の三代目を継ぐまでは、青年を抱く事すら控えなければいけない為、自分の想いを告げる事など以ての外だ。
それに、自分が相手を好きだと告げた所で、相手は自分に
恨みや嫌悪しか抱いていないのだから、告げる意味が無い。
「ええ。でなければ、こんなに優しくなれませんよ」
本当は凪だからこそ、優しくなれるのだと考え、樋口は心中で苦笑を浮かべる。
人を好きになると云う事が、弱みに繋がるなどとは、思いも寄らなかった。
もし凪が人質に取られれば、樋口は間違い無く、何でもするだろう。
この命すら、投げ出す覚悟も有る。
……押しも押されぬ、天下の樋口組の組長が、何たる様だろうか。
自分自身を嘲り、樋口はサングラスを掛け直して凪へと視線を戻す。
何処と無く、相手は悲しそうに目を伏せていた。
声を掛けても、凪はもう樋口の方を見ようとはしない。
樋口を恨む事も、嫌う事も出来無い凪にとって、樋口が放つ言葉が
どれだけ些細なものだとしても、それは自分に大きな痛みを与えてくれる。
弟みたいとしか、思われていない自分。
兄を捜す為に必要不可欠な、道具のような自分。
そして……欲求の捌け口としての、自分。
本来の自分など、樋口には決して必要とされず、心にも残らないのだ。
そう考え、凪は諦めにも似た感情を抱いた。
想いを言葉に出してしまえば、それこそ抑えが利かなくなりそうで恐い。
それに、もうこれ以上傷付きたくは無いと、心から願った。
自分の想いを打ち明ける事は決してせず、蓋をし、隠し続ける事を
凪は心の中でそっと―――――けれど固く、決意した。
桜羅会の若頭で、榎本組組長である榎本康史は、苛付いたように組長室の天井を睨んだ。
椅子の背凭れに深く寄りかかり、行儀悪く机の上へと乗せていた両足を組む。
苛立たしげに舌打ちを数回零し、榎本は携帯を左手へ持ち替えた。
電話の相手は、桜羅会の若頭補佐、水嶋猛だ。
数ヶ月前の抗争相手、松山組との手打ち金を持ち逃げし、行方を眩ました裏切り者が、今更何の用だ、と。
嘲りとも呼べる言葉を放ち、直ぐに会話を終わらせる筈だったのだが、既に五分も会話を続けている。
「それで…おまえ今、何処に居る?」
猛の云っている事は空言かと疑っている榎本は、信じたフリをして探りを入れた。
場所を突き止めて猛の身柄を津川に差し出せば、自分の株がまた一つ上がるだろう。
そう考えていた榎本は、猛の返事を耳にして、唖然とした。
桜羅会会長、津川と長い間敵対している遠山組の組長、遠山信之の所だと云う。
前 / 次