鳥籠…17
その瞬間携帯が鳴り、榎本は画面も確認せずに出る。
「誰だ、」
「どうも、榎本さん。樋口組の、海藤です」
「…何の用だ、」
相手の名乗りを耳にして、一瞬身体を強張らせた榎本は、少しばかり返答が遅れる。
嫌な汗が肌を伝い、息が詰まる。
自分の声は震えていないか、しきりに気にしていると、通話相手の海藤は
まるで榎本が怯えているのを見破ったかのように低く笑った。
「榎本さん、うちの組長が、貴方にどうしても訊きたい事が有るそうなんですよ。…ご同行、願えますか?」
「何を寝惚けた事…ッ」
声を荒げた瞬間、耳をつんざく様な銃声が轟き、榎本の鼻先を銃弾が掠める。
背筋が凍り付くような恐怖が身を襲い、榎本は銃弾が飛んで来た方向へ、ゆっくりと顔を向けた。
真横の窓ガラスに、銃口が突き付けられている。
「か、海藤…」
榎本の携帯を持つ手が震え、冷や汗が頬を伝う。
銃声を聞きつけた、歩道に居る者が幾人か騒ぎ立てるが海藤は平然とし、
無表情で車の脇に立ち、榎本を冷ややかな目で見下ろしている。
「……ご同行、願えますよね?」
携帯から海藤の低く、ドスの利いた冷たい声が響き、榎本の顔がみるみる青褪めてゆく。
膝を揺する事はもう無かったが、代わりに榎本の身体は情けない程、小刻みに震え出していた。
樋口が出て行ってから、既に二時間は経っただろうか。
凪は意味も無く室内を歩き回り、いつも樋口が腰掛けているスツールへと、腰を下ろした。
嫌な予感が常に纏わりつき、考え事にもあまり集中出来ず。
落ち着かないように室内を見回しては、溜め息ばかり漏らしていた。
考え事は、やはり樋口の事だったが、凪はどれだけ考えても、答えが見つからずに居る。
本部へ向かい、戻ってからの樋口の態度が、何処と無く今までと違うように思えた。
今まで樋口は、名前を呼ぶよう要求する事など無かったし、身体を重ねる時などは
更に優しいけれど、久し振りだからだろうか。
数時間前の樋口は、今まで以上に、優しく感じられた。
それに……。
「好き、って…」
ぼんやりと憶えている言葉を、口に出して呟いてみる。
あの言葉は、本当に樋口が云ってくれた言葉なのか。
それとも、自分の強い願望が、そう云われたと思い込ませているだけなのか。
凪はもう随分、長い時間悩んでは、一向に答えが見つけられずにいた。
もし、樋口が自分の事を、自分と同じように強く想ってくれているんだとしたら…?
防弾硝子に手を当て、硝子の向こう側に生い茂っている木々や植物を見つめながら、凪は考え込む。
地下だと云うのに、硝子の向こう側は庭になっており、
生い茂っている緑の中には、夾竹桃や末央柳、下野などが紛れている。
これ程広い地下を持ち、こんなにも立派な鳥籠のような部屋を造れる樋口は、どれ程の資産家なのか。
度々そんな事を考えたりもしていたと思い出し、自分はいつだって
樋口の事しか考えていないと思い、凪は苦笑を浮かべる。
本来なら、兄や父が無事か心配するべきなのに、好きな相手の事ばかり考えている自分は、何て身勝手なんだろう。
自責を胸に抱くものの、頭の中は直ぐに樋口の事を考え始めてしまう。
いつもは末央柳のその美しさに目を瞠り、見惚れる凪であったが、今は溜め息しか零れず。
「樋口さん…僕は、」
物静かな室内で一人呟き、凪は目を伏せた。
今までずっと云えなかった言葉が、何度か頭の中に浮かんでは、消えてゆく。
樋口が戻って来たら、自分の想いを告げてみようかと、凪は考える。
けれど、もし想いを告げても、樋口が自分の事を、やっぱり何とも思っていなかったら…?
その時の絶望感や哀しみは、きっと凄まじいものだろう。
傷付く事を予想し、恐怖を感じるものの、凪はその感情を振り払うようにかぶりを振った。
傷付く事を恐れて、保身ばかり考えるのは、逃げるのは止めようと……
そう考え、凪はゆっくりと伏せた目を開けた。
樋口の、想いを告げた言葉が無ければ、此処まで決意する事は無かっただろうと、凪は考える。
もしあの言葉が、真実ではなく、自分の聞き間違いだとしても……
それでも、凪は樋口に自分の想いを告げたいと考えた。
覚悟を決めると、樋口が戻って来るのが待ち遠しく思える。
防弾硝子から手を離し、彼はいつ戻って来るのかと考えつつ、
壁に掛かっている時計へと目を移した瞬間、大きな衝撃音が響き渡り、同時に部屋全体が揺れた。
何事かと狼狽える凪の耳に、怒号や銃声、人の悲鳴や物の壊れる音などが遠くで聞こえる。
銃声など今まで聞いた事の無い凪は、それが銃声だとは理解出来ない。
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