鳥籠…26
広い病室で、スツールに腰掛けている樋口の悄然とした姿は痛ましいものがあり、海藤は声を掛けられずにいた。
目を伏せ、姿勢良く一礼し、物音を立てずにドアを開閉して病室を出て行く。
室内に残された樋口は、ベッドの上に横たわっている青年を、じっと眺めていた。
冷たい彼の手を握り、樋口は悔しげに歯を咬む。
凪は極めて危険な状態から、何とか一命を取り留めたものの、
一向に意識は戻らず、目を覚まさないままもう四日も経とうとしていた。
何故猛が負傷し、凪が撃たれる破目になったのか、理由は分からないが――――あの時、もっと早く辿り着いていれば。
樋口はずっと、そんな後悔の念を抱いている。
「…何が、天下の樋口組組長だ…」
自嘲し、吐き捨てるように呟き、青年の冷たい手を握り続けた。
愛する者を守れなかった自分の無力さが歯痒く、手を伸ばして軽く髪を梳くように、凪の頭に触れる。
「ナギ…、」
眉を顰め、囁くように低い声で相手を呼ぶが、目覚める気配は無い。
このまま一生目覚めないままだったらと考え、樋口は絶望感に包まれる。
――――他人をゴミのように扱い、必要と有れば平気で嬲り殺して来た、罰なのか。
思わず目を伏せ、握る手に力が入ると、小さな呻き声が耳に入った。
「ひ、樋口さ…?」
続いて、今にも消えてしまいそうな程に弱々しい、か細い声が聞こえる。
視線を上げると、凪の閉じたままだった瞼が、少し開いていた。
「僕…一体…、」
「意識が…暫く、戻らなかったんですよ。…焦りました、」
心底安堵したように息を吐き、樋口は凪の枕元に置かれた、ナースコールへと手を伸ばす。
樋口の動きを少し虚ろな目で見守っていた凪は、樋口がずっと
手を握っていてくれた事に気付き、少し驚きの表情を浮かべた。
頭の中に、樋口が最後に云った言葉が浮かぶ。
あれは、幻聴だったのだろうか。夢だったのだろうか。
それとも…………
「ひ…ぐち、さ…」
弱々しい声で相手を呼ぶと、樋口は眉を寄せ、凪の頬を無骨な手で包み込む。
「ナギ、まだ喋るな。傷に障る…」
心配そうな表情で見下ろされ、凪の胸が熱くなった。
自分が心の底から愛している人が、ずっと傍に居てくれて…その上、心配までしてくれる。
その事実が、凪を堪らなく幸せにさせた。
樋口の手を、弱々しくだが握り返し、凪は相手を呼ぶ。
少し驚いた顔を浮かべている樋口に向けて、凪は唇を動かした。
―――――離さないで。
声が出たのかは分からず。
ただ、樋口の顔が更に驚きに満ちて、やがて頷いたのを目にすると、凪は安心したように瞼を閉じた。
退院は予想していたより大分早かった。
本来なら一ヶ月以上は入院しなければならない状態だったのだが、
凪が意識を取り戻してから、二十日後と云う短い期間で退院できるようになった。
それと云うのも、凪が早く戻りたいと、珍しく駄々をこねたからだ。
毎日のように病院へ通い、常に凪の傍に居た樋口は、凪の唐突な我儘に驚いた。
普段なら凪の要望は聞き入れるものの、これだけは頑として聞かず、
完全に傷口が塞がるまで入院を続けるよう説得したが………
凪はかぶりを振り、幼い子供のように我儘を貫き通した。
「全く、困った坊やだ…」
樋口の溜め息交じりの呟きを耳にしても、凪は謝罪の言葉すら漏らさない。
一体どうしたのかと訝る樋口の隣で、凪は黙り込んだままだ。
車を走らせていた海藤は、後部座席の二人の様子を、ミラー越しで眺める。
まだ完璧に傷が塞がっていないと云うのに、どうしても早く戻りたいと告げた凪の意図が、理解出来なかった。
「海藤、」
ミラー越しに凪を見ていると、すぐさま樋口の不機嫌な声が飛んで来る。
謝罪の言葉を放ち、凪を見るのを止めた海藤を、樋口は暫くの間、不快そうにねめつけていた。
「凪君、あまり、無理はなさらないで下さい」
急くように、凪があの鳥籠のような部屋へと向かうのを目にして、樋口は焦り、凪の身体を抱き上げた。
軽々と身体を抱き上げられると流石に凪は慌て、今まで黙り込んでいたのが嘘のように口を開いた。
「だ、大丈夫だから、お…降ろして」
「駄目です。降ろしません、」
口元を歪ませて愉しそうに笑い、樋口は凪の言葉に耳も貸さずに
階段を降り、凪を抱えたままで鳥籠のような部屋へと足を進めた。
細い廊下を通り、やっと部屋に辿り着くと、凪は暫くぶりの室内を何も云わずに見回す。
懐かしむように一頻り室内を見回した後、安堵の息を漏らした凪を
訝りながらも、樋口はそっと、ベッドの上へ凪を降ろしてやる。
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