鳥籠…27

「一体、どうされたんです?」
 軽く髪を梳くように凪の頭に触れ、サングラスの奥の瞳を細めながら、樋口が問う。
「うん……やっぱり、此処が一番落ち着くなぁって、思って」
 病院は樋口が傍に居ても、何処と無く落ち着かず、夜は一人で、あまり良く眠れなかった。
 仕事がどれだけ忙しくても、樋口は必ず、凪が眠る頃にはこの部屋へ戻り、一緒に寝ていたからだろう。
 言葉を返し、安堵の息を再度吐いた凪を見下ろしていた樋口は、苦笑を浮かべる。

「落ち着くとは…妙な話ですね。ここは、凪君を閉じ込める檻ですよ、」
「でも、やっぱり此処が一番、落ち着くから」
 はっきりと言葉を返す凪を見遣り、樋口は何処と無く困ったような、何とも云えない笑みを零した。
 凪の頭を撫でていた手を止め、何かを思い出したように壁に掛かっている時計へと視線を向ける。
「病院の朝食、手を付けなかったそうですね…何か運ばせましょうか、」
 待っていてください、と優しい声色で声を掛けた樋口は、凪の傍から離れようとした。
 だが、袖をいきなり凪が掴んで来た為、樋口は動け無い。
「凪君?…どうされました?」
「あの…あの、僕…訊きたい事が有るんだ、」
 震えた声で告げる凪を見ながら、樋口は頷き、ベッドの上へと腰を下ろす。
 凪の頭の中には、樋口が最後に告げた言葉だけが、ぐるぐると回っていた。

「樋口さん……く、車の中で…云ってた言葉は、あれは…あれは、本当?」
 車の中で、とは先程の事かと考えるものの、病院を出てから凪は全く口を利いていなかった事を思い出す。
 なら、どの車の中だったのかと考え、樋口は眉を寄せた。
 訊き返すのも躊躇われ、思い出そうと凪から視線を逸らした樋口の脳裏に、
 撃たれた凪を抱き締めながら言葉を放った自分の姿が浮かぶ。
 まさかあの言葉を、凪が憶えているとは考えもしなかった為、樋口は戸惑う。

 ………今、伝えるべきか。
 親を殺したと云う事実を暴露してやると、樋口の事を脅した津川は、もう居ない。
 だが、想いを伝えた所で、凪は自分を好いては居ないのだから、無駄では無いだろうか。
 猛が真実を知っている事を、知らない樋口はそう考え、凪へと視線を戻した。
 自分を見つめている凪と、目が合う。
 色素の少し薄い、淡い、鳶色の瞳。

 ―――――この瞳だ。
 出逢った瞬間、この瞳に、樋口は容易く落ちた。
 その後、凪の内面を知ってからは抜け出せないくらい、この青年に夢中になっていた事を思い出す。
 この優しい青年には似合わない、相手を縛り付けて離さないような、力強さが有るその瞳を見つめている内に……
 樋口の中で、想いを伝える事は無駄だと云う考えは、消え去っていた。

「……本当です。お望みで有れば、もう一度云いましょうか?」
 微笑みながら告げる樋口を見て、凪が目を見開いた。
 徐々にその瞳は濡れ、涙が溜まってゆく。
「な、凪君…?傷が痛むのですか?」
 唐突に泣き出した凪を見て樋口は焦り、俯いた凪の顔を覗き込む。
 その瞬間、凪は樋口の首へとしがみつき、顔を上げて樋口を濡れた瞳で見つめた。
「樋口さん…僕、僕…伝えたい事が有るって、云ったよね?」
 唐突な凪の行動に驚いた樋口だったが、平静を装い、続く言葉に軽く頷いてみせる。
「ええ。いくらでも、凪君の気が済むまで、じっくりと聞きますよ、」
 にこやかに微笑み、凪の身体を労わるようにベッドの上へ横たわらせ、その上に覆い被さる。
 愛する人に見下ろされ、凪の鼓動は速まり、体の熱が上がってゆく。

「あ、あの…僕、僕は…」
 声が震え、上手く言葉が出せない。
 凪が何を云おうとしているのかは分からないが、樋口は苛立つ素振りも無く、じっと凪の言葉に聞き入る。
 急かされる事は無いと云うのに、凪は続く言葉が一向に出せ無かった。

 けれど、凪はどうしても伝えたかった。
 樋口が自分の事を好いていてくれたと云う、夢のような真実に、
 涙は止まらないけれど……どうしても、伝えたい言葉があった。

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